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2020年9月17日 (木)

九月中旬の近況2

 いまさらであるが、義江彰夫氏が二〇一八年二月に死亡されていた事を知った。満七四才であった。氏に出逢ったのは大学二年時で、一年時には自主ゼミ「中世的世界の形成」に参加していた。一九七五年度は正規のゼミとして開講されていたが、翌年は自主ゼミとして本郷から石井進教授を招いて行われた。LⅢ5Bの一年先輩であった山中(現山室)恭子氏からオリエンテーションで勧誘を受け参加した。当初は三人であったが、一年間継続したのは当方のみであった。
 当時は石母田氏の著作ではなく、それを批判的に継承した戸田芳美、河音能平氏の論文について議論していた。当方は石母田氏の論文を読み始めたばかりで、先輩の報告を聞いていた。二年生は山中氏のように国史を目指す人のみならず、西洋史、哲学、さらには法学部を目指す人もいた。顔はいまでも覚えているが名前が出ない人もいる。外部からの参加もあった。石井氏以上の年齢と思われた「おじさん」であるが、マルクス主義や共同体論の立場から議論に参加していた。網野善彦氏『蒙古襲来』についても議論になった。その中で苦し紛れに、非農業民との戦闘により、動物の死に関わる仕事をする人々への差別が強まるという主旨の発言をしたことは覚えている。山中氏は網野氏の熱烈なファンであった。氏は卒論で戦国大名今川氏を論じ、その題名である「中世の中に生まれた近世」は、氏の著書の題名にもなった。コンピュータでデータベースを作成して論じていた。当時のコンピュータはパンチカードを利用するものであったと思うが、手書きのカードも併用していた。同級生の多くがコンピュータの講座を受講していたが、当方は高校時は理系で数学科を志望したこともあって外部講師(東京工大)による「微分方程式」の講座を受講していた。大変難しい世界であったとの印象がある。山中氏は現在では江戸幕府の経済政策などを論じているが、中世前期についても精通していた。
 大学二年時には石井氏が招かれてドイツへ行かれたため自主ゼミはなくなったが、氏から呼び出されて喫茶店で会った際に、今度、北海道大学から義江彰夫氏が来られるので、中世史を学ぶ機会としてほしいと言われた。その際に旧姓から「君は鳥取の出身か」と聞かれたことも思い出される。鳥取出身で大正デモクラシー研究者で名高い人がいたことからである。三年時に国史学科へ進学し、石井氏も戻られたが、大学の創立一〇〇周年をめぐる問題が発生していた。当方は全く知らなかったが、二年時には百年史の編纂委員長である笠原一男氏の講座に学生がやって来て、どのように百年史を編纂するのか問い質すことがあり、笠原氏の講座は休講となり、退官前の記念授業もなされなかったそうだ。今調べると、一九七七年退官とあり、佐藤進一氏と同年齢であった。笠原氏は一向一揆の研究で知られ、大学受験の日本史の問題にもそれに関連した出題がしばしばあった。ただし、西洋史の木村尚三郎氏と同様、後半は研究論文の執筆はほとんどなくなった。何かの用事で国史学科助手であった服部英雄氏が笠原宅に届けもののため行ったところ、本人不在でつれあいが対応され、若い時にしっかり実績をあげることが大切だと言われたとか。当時の笠原氏はビルも所有していたようである。
 ともあれ二年時は正式なゼミである義江氏の「武士成立の諸問題」を受講した。『保元物語』を読みながらの講義であったが、北大時代の話もあった。記憶しているのは、大学構内を口笛を吹いて歩いていたところ、学生と間違えられて、当時行われていた大学自治会役員選挙に投票するよう言われたそうだ。当時の文系の教官は授業日以外は自宅などで研究をしていた人が多かったが、氏は毎日大学に来ているとも言っていた。三年時に義江氏の大著『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』が刊行され、国史学研究室を通じて二割引で購入したが、価格を下げるため韓国で印刷したことを聞いた。
補足:確認するとブログを開設した直後の「網野史学2」(2008年11月)の中で義江彰夫氏について言及していた。

 

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