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2020年9月20日 (日)

藤原光隆の子

 藤原光隆の嫡子で、杵築大社領家となった雅隆(一一四七年生)の母は藤原信通の娘である。信通は白河院近臣である宗通と同じく近臣である藤原顕季の娘との間に生まれた。信通の一才年上の同母姉が忠通の正室宗子で、崇德天皇の中宮聖子の母である。信通の同母弟が伊通、季通、成通、重通であるが、信通は保安元年(一一二〇)七月に死亡した父宗通の後を追うように一〇月に三〇才で死亡した。従三位参議であった。これにより雅隆の母は保安二年以前の生まれとなる。父光隆は大治二年(一一二七)の生まれであるから、母の方が六才以上年上であった。信通の二人の男子は基隆の娘との間に生まれており、雅隆の母もその同母姉妹であった可能性が高い。父信通の早世前後に生まれた可能性の大きい娘は母方の祖父基隆の庇護下に入ったのではないか。信通の六才下の同母弟成通も基隆の娘を妻としている。雅隆の母方の祖父基隆は天承二年(一一三二)に死亡しており、光隆との間に雅隆を生んだ時点では基隆の嫡子忠隆(一一〇二年生)の庇護下にあったであろう。忠隆の正室は藤原顕隆の娘栄子で、崇德天皇の乳母であった。光隆は美福門院とその子近衛天皇との関係が深いとされるが、本来は父清隆と同様、待賢門院流(白河-待賢門院-崇德)との関係が深かった。
 では光隆の子で雅隆の跡を継承して大社領家となった家隆(一一五八年生)はどうであろうか。家隆は新古今和歌集の撰者としても知られているが、その母は閑院流実兼と藤原永業の娘との間に生まれている。実兼は待賢門院の異母兄であり、系図では大治五年(一一三〇)に死亡したとされるが、一方では天養元年四月二九日に刑部卿実兼朝臣がみえる(『本朝世紀』)。系図によると家隆の母もまた父実兼の死の前後の生まれとなるが、誤りであろう。ただし、家隆誕生時に実兼が生存していたかどうかは不明である。実兼の子成兼は従兄弟である三条公教の養子となり、德大寺実能が知行国主であった丹波国の国守(久安五~久寿二)となっている。家隆を生んだ女性と成兼は実兼の晩年の子であった可能性が高い。永業は高階成順の子から藤原南家永業の養子となり受領を務めていたが、その娘は藤原公実や藤原師実の室となっている。師実の子忠教の母もまた永業の娘である。ここからも光隆と待賢門院流との関係がうかがわれる。
 以上、光隆の子雅隆と家隆についてみたが、父清隆が三条公教、藤原長輔(長実の子)、藤原経宗(母は待賢門院同母姉、二条天皇母懿子の同母弟)、平範家(実親の子)、藤原重方(顕隆の孫)、藤原忠基(忠教の子)との婚姻関係により人脈を拡大したのに対して、光隆は藤原実教(家成の子)と平親国(その父親宗は時子、時忠の異母兄弟、親宗の母は基隆の娘)と婚姻関係を結んだ程度である。この差が光隆の子雅隆・家隆こそ、非参議公卿となったが、その孫の世代は公卿にならなかった原因であろう。

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