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2020年9月24日 (木)

建久二年在庁官人等解

 建久元年の大社遷宮の翌年に二通の在庁官人等解が提出されている。ただし、それに対してどのような回答がなされたかは史料が残っておらず不明で、二通に書かれたことが事実かを含めて検討する必要がある。また、解は在庁官人等ではなく国造が作成したものであろうが、在庁官人の多数が署判を加えていることは確かである。最初に杵築大社司をめぐる国造孝房と内蔵資忠の相論について孝房を支持する解Aが出され、次いで国造兼忠以前の文書が焼失したことに伴う紛失状=解Bが出されている。
 解Aに関する支証として現在の造営旧記(治暦から久安までを記す)が作成されたことはすでに述べた通りであるが、直近の建久の造営に関しては、文治六年に造営の完了を受けて覆勘宣旨が出されたこと以外はカットされている。造営が対立者である資忠により担われたためである。建久元年への改元は四月一一日であるため、それ以前に宣旨が出されたことになる。それを含めてAに記された内容は、国造側に都合のいいもので、検討なしには使用できない。
 はっきりしているのは、内蔵忠光が中心となって崇德院に大社領が寄進・立券されたことと、崇德院の失脚を受けて国造兼忠が後白河天皇に訴えたことである。崇德院との関係から忠光を召喚するため、検非違使兼重(成)が出雲国に下向してきたが、忠光が神殿下の積んであった萱に放火して神殿の焼失を図ったとする。実際には神殿の焼失は起こっていないことがポイントである。そしてこれまで意味を確認していなかったが、「朝章の重み」により、忠光が逮捕されることもなかったのである。崇德院庁分領であった大社領は当座の処置として国衙の管理に置かれたが、忠光の寄進・立券は「朝廷の法」に基づく正当な行為であったため、処罰されなかったことになる。となると、それに続いて記されている、忠光の子孫を永く停止するとの宣下が出されたことは事実ではなかろう。実際に、忠光の子資忠は頼朝の支持を受け、領家藤原光隆から神主に補任されており、それは圧力で拒否できなかったものではない。
 解Aが出されたが、支証が不十分とされ、それに対応するために出されたのが久安五年一一月二八日夜に兼忠宅が焼失して、それ以前の文書も失われたとする解B=紛失状であった。一三通の国造庁宣の写しが提出されたと思われるが、長保四年(一〇〇二)五月一五日に出雲孝忠を国造に任じたとの国司からの報告を受け、これを承認する太政官符が六月二八日に出されている。これに対して紛失状では正暦四年(九九三)一一月に吉忠が庁宣で国造に補任されている。この後、吉忠が死亡し、後任に孝忠が補任された可能性があるが、なぜか孝忠を補任した庁宣は提出されていない。国造家の系図でも吉忠は正暦四年から四八年間国造に在職したとしている。吉忠の後任の国明は紛失状では長暦二年に補任されているが、系図では同四年から八年間在職したことになっている。要は解状作成時に過去の記録が写を含めてきちんと残っていなかったため、提出された過去の庁宣の内容が違ってしまったのだろう。この背景には兼忠と国造孝房の父宗孝の関係が影響している。兼忠は天承元年から三八年間国造に在任し、次いで兼経が九年間在任した後に安元二年に孝宗が国造に補任され、一〇年後に孝房が補任されている。そして孝房は解Aの中で兼忠を「伯父」と呼んでいる。松江市史では宗孝を兼忠の弟とするが、建久五年の解では宗孝は元出雲氏である上に兼忠の嫡子として国造職に補任されたとしている。兼忠の前任者父兼宗も三三年間在任している。兼宗の父頼兼は二八年間在職している。一方、宗孝の子孝房は二〇年間在任している。国造の場合は前任者が死亡して初めて次代に交替する。
 現在の天皇の場合は、父上皇が三一年間在任したため、天皇に即位した時点で五九才であり、上皇は父昭和天皇が六四年在位したため五六才での即位であった。天皇は幼少でも即位できるが、国造は前任者が死亡し、本人が成人(一五~二〇才程度ヵ)に達していないと後継できない。兼忠は国造となった時点で三〇才を超えていた可能性が高く、死亡時には七〇才以上であった可能性が高い。康治元年一一月の仮殿遷宮時に兼忠の弟兼成と子顕兼がみえるが、いずれも名前には「兼」が付いている。宗孝が兼忠の弟である可能性は低い。兼忠の死により国造となった兼宗の兄宗房の子兼経もまた「兼」を付けている、その意味で宗孝は兼忠の弟ではなく、その娘の夫ではなかったか。そのため、宗孝以降、国造は代々名前に「孝」を付けている。宗孝は出西郷を開発した出雲氏の一族で、その経済力を背景に先ず領家から神主に補任され、次いで、国造兼経の死とその子石王冠者が幼少であったため、国造となった。それを正当化するために、安元元年の国司庁宣と建久五年の在庁官人等解状を偽作し、国造兼神主であった宗孝が国造を一時的に兼経に預けるという国造職の相続上ありえない事を記したものである。
 話を戻すと、久安五年一一月二八日の火災で史料を焼失したことにしたのは、それまでに内蔵忠光により崇德院庁分領杵築大社領が成立していたため、この時点で資料を失ったことにしたものであろう。この記事は忠光が「朝章の重み」により処罰されなかったことの意味にようやく気付いたため書いたものである。

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