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2020年9月29日 (火)

姝子内親王をめぐって2

 本記事はここから本論に入る。姝子が内親王となったことで、内親王家の家司と職事が補任された。勅別当が大納言藤原成通で、家司は土佐守藤原季行、刑部卿藤原雅教(年預でもある)、但馬守藤原長成、常陸守平頼盛、長門守藤原家頼であった。職事については必要に応じて言及する。
 成通は白河院近臣宗通と顕季娘との子であり、同じく近臣であった藤原敦兼と藤原基隆の娘を妻としていた。姝子の母得子は顕季の孫にあたる。後継者には恵まれず、兄為通の子泰通と源行宗の子有通を養子にしている。為通は崇德天皇との関係が深かったが四三才で死亡し、その時点で源師頼の娘との間に生まれた泰通は一二才でしかなかった。源行宗が実仁・輔仁親王と輔仁の子有仁に仕えていたことと、崇德の子重仁内親王を産んだ兵衛佐局を養女としていたことは既に述べたとおりである。
 季行は前述の敦兼の子で、敦兼の知行国の国守を歴任するとともに、待賢門院御給で叙爵し、前斎院統子御給で従五位上に叙せられているように、白河-待賢門院-崇德系に属していた。それが康治二年正月に皇后(得子)御給で正五位下に叙せられており、この頃、姝子の乳母(妻である藤原宗能の娘)夫となったのであろう。宗能の父である『中右記』の記主中御門宗忠も白河-待賢門院-崇德系に属する一方で藤原忠実との関係を有していたが、叔父宗通が白河院により重用されており、宗通後家との間の庄園をめぐる対立の解決は白河院没後に期待していた。季行には同母兄季兼がおり庶弟であった。
 雅教は藤原家政の嫡子であるが三才時に父が三五才で死亡した。母である顕隆の娘が、その後俊忠との間に豪子と俊子を産んだことは前述の通りである。六才で叙爵し、一一才となった保安四年正月に白河院分国越後の国守に補任されたのは母方の祖父顕隆の力であろう。次いで白河院没後の大治四年一二月二五日の除目で遠江守に遷任しているがなお一七才であり、知行国主がいたはずである。祖父顕隆は同年正月に死亡しており、その嫡子で顕頼が国主であろう。五味文彦氏作成の表では大治二年正月に養子顕広(俊忠の子)を国守に補任された美作国が顕頼知行国の初見で、顕広はその後加賀守をへて遠江守に遷任しているが、それは雅教との相博であった。それが近衛天皇即位直後の永治二年正月に皇后宮(得子)給で正五位下に叙されているのは、姉家子(同母である可能性が大きいか、系図には記載なし)が体仁親王(近衛)の乳母となり、その夫清隆が春宮亮に起用され、同じ除目で正四位下から従三位をとばして正三位に叙せられたのと同様の背景によるのだろう。Wikipediaでは鳥羽院庁別当を務めた功績で仁平三年に従四位上に叙され刑部卿に補任されたとするがその記述の根拠は不明である。はっきりしているのは従四位下、従四位上は美福門院御給、正四位下は一院(鳥羽)長承三年未給という名目であり、姉家子が近衛天皇の乳母であったことが大きかった。雅教が院庁下文と院庁牒の署判者としてみえるのは平治の乱の前後の後白河院庁の各一通(権中納言藤原朝臣)のみである。保元の乱の直前の三月に右中弁から蔵人頭を兼ね、四月には左中弁に転じており、乱では藤原忠実・頼長父子による武士の動員を禁じた命令の奏者を務め、乱後の九月には参議に補任されて公卿になるとともに、左大弁を兼ねた。

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