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2020年9月22日 (火)

藤原長実の娘

 白河院の近臣長実の娘といえば晩年の子で鳥羽院の寵愛を受けた得子が有名であるが、系図に記録の無い室や娘がかなりいたようである。ここでとりあげるのは『長秋記』長承三年八月一四日条に登場する姉故左金吾妻である。故長実の後家越後尼が訪問してきた源師時に語ったことが記されている。長実鍾愛の女子(何度もいうが、後家尼の子であることは物理的に不可能)が鳥羽院の寵愛を受けていることは家門の面目を施したが、得子の兄弟骨肉は皆勘当同然として、兄長輔が近習を停止され、長親、時通雅国務を停止されたことを歎いている。それに続いて「姉故左金吾妻」も家・土地・庄園・資財・雑具を併せて収公され、故顕盛朝臣の蔵も顕頼卿によって摘発され納めたにもかかわらず、用物を召し取られ、其の外男女眷属の所領も召し上げられたとする。長実とは無関係な顕頼卿もまた被害者であるとの角田文衞氏の解釈が誤りであることは繰り返し述べてきた。この背景には待賢門院の訴えがあるとする角田氏の説には五味文彦氏まで賛成しているが、これまた誤りで、外戚である閑院流との関係の反省に基づく、鳥羽院の意向である。国務の停止は、顕盛が解任された修理大夫に復帰したのと同様、間もなく解除されたが、顕盛の場合はすぐに藤原基隆によって修理大夫の座を奪われ、公卿になることなく没した。その背景については前述の通りなのでここでは省略する。
 問題は長実の娘が故左衛門督(左金吾)の妻となっていることである。長実の娘の夫で左衛門督になりながら在任中に死亡した人物なので、『公卿補任』をみれば比定は可能である。左衛門督は権中納言クラスが兼任している。長承三年八月時点の左衛門督は源雅定であるが、健在である。順に遡っていくと、藤原実行(建在)、藤原通季(権中納言、大治三年没、三九才)、藤原能実(大納言、長承元年没、六三才)となり、西園寺(当時は藤原)通季である。通季は待賢門院の同母兄で、母光子は堀河・鳥羽両天皇の乳母であった。この通季が死亡した二年後に長実はその子公通(母は藤原忠教の娘)を聟に取っている。このことを根拠に五味氏は通季の知行国丹波が長実の知行国となったとされたが、二年のズレは問題である。
 今日たまたまネットで検索していて宮本晋平「鎌倉期公家知行国の国務運営」(史林87の5、2004)を読んだが、知行国制は宮本氏が説く鎌倉期以前から同様の状況にあったのではないか。宮本氏は国司庁宣と国宣に袖判を加えている人物を知行国主とする通説に対して、その中には位階が五位にすぎない人物もいて、国主ではなく国務奉行だとの説を提示している。名称はともかく、袖判者=国主ではないというのは正しく、宮本氏が指摘した事例は貞応二年以降のものであるが、院政期にまで遡るのではないか。それこそが知行国制のファジーな性格を示している。堀河天皇没後の白河院政期では本院(白河)と新院(鳥羽)の分国のみ、公卿補任の受領の経歴に記載され、知行国や女院分国は記載がない。それゆえに、知行国主と女院分国については意見の相違がみられる。女院分国は本院・新院分国と知行国の中間的存在であろうか。
 話を戻すと、通季の妻の一人であった長実の娘の土地・建物・資財も没収されている事は、それが長実から譲られたものだとしても、通季の同母妹である待賢門院の意向ではなく、鳥羽院の意向であることを如実に物語っている。院分国と知行国が重なっているようにみえる事例は院政期にもみられ、通季没後の丹波国は御願寺造営を行っていた待賢門院の分国となり、そのもとで長実が、知行国主とよぶかは微妙であるが、国務の執行者となっていた。長実も待賢門院璋子が永久五年一一月二六日に鳥羽天皇の女御として入内した際には政所別当を務め、関係は深かった。父通季、そして聟入りした長実が死亡しても丹波守公通の地位に変更がなかったのはそのためである。

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