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2020年9月 7日 (月)

一四世紀以降の大社本家

 松安隆跡を検討する中で、山科氏は井上寛司氏説のように、光隆跡としての領家職ではなく、範子内親王(坊門院)跡としての本家職を簒奪したとの理解に達した。そうすることで、応永三〇年五月 日柳原宮家雑掌定勝申状との整合性を図ることができる。戦国期の山科家領は柳原宮家が押領されたと訴えた遙堪郷、鳥屋郷、千家郷、富郷、伊志見郷、石塚郷の六郷であった。
 本家職については坊門院→土御門院→承明門院→安嘉門院→亀山院と継承されたことを明らかにした。これに先立つ二〇〇四年の論文では、元亨三年八月に後醍醐天皇から永嘉門院に大社領が返されたことも明らかにした。問題は、亀山院が死亡した嘉元三年九月一五日から永嘉門院が支配を認められた元亨三年八月一四日までの本家である。大社領は安嘉門院領から亀山院領となったが、大半の安嘉門院領が後高倉院領であったのとは異なり、承明門院領であった。永嘉門院(瑞子)の父宗尊親王は文永三年に将軍を退任して京都に送還されると、父後嵯峨の祖母の御所であった土御門殿に住み、土御門通具の曾孫にあたる女性との間に一男一女をもうけた。この一女が永嘉門院である。後嵯峨自身も父土御門が承久の乱で土佐に配流されたため、祖母承明門院のもとで育てられた。その意味で、永嘉門院は承明門院の後継者でもあった。
 大社領が亀山院領となったとしたが、永嘉門院は亀山の猶子となり、后妃でも内親王でもなかったにも関わらず院号宣下を受けた。次いで亀山の子後宇多の後宮に入り、後宇多の後継者で早世した後二条天皇の子邦良親王を養子とした。永嘉門院と亀山・後宇多との関係と、大社領が承明門院領であったことから、亀山の没後、後宇多-後醍醐と受け継がれた大社領が、元亨三年八月に永嘉門院領とされたと思われる。永嘉門院は父宗尊親王が譲られることなく死亡した室町院領の相続を正安三年に求め、幕府により一旦はその内の半分を認められたが、永嘉門院が大覚寺統に属していたため、持明院統が強行に反対し、決定は破棄された。次いで元亨三年に幕府に越訴を行い全体の四分一程度を永嘉門院領とする裁定が出たが、今回もまた持明院統が反対したため、幕府は最終的には永嘉門院の越訴を棄却した。
 柳原宮家雑掌が訴えた所領以外は、柳原宮家が支配していたかどうかがポイントだが、前述のように領家の支配も貞和二年までは確認できるので、その前後に、両者で分割がなされ、残る高浜郷、稲岡郷、武志郷、北島郷、求院郷、出西郷が領家分とされたのだろう。その後領家分は幕府や守護京極氏領をへて戦国大名尼子氏領となったが、その時点では「本家分」と表記されており、本家と領家の区分は消滅し、地頭分に対する用語として使用された。これに対して山科家領は一五世紀末までは維持されたことが確認できる。
 以上により、不明な点が残っていた本家の問題について結論を得ることができた。

 

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