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2020年9月 5日 (土)

文書の声を聴くー差図と譲状3

 そして、北島方が正統性の根拠とする文書は、領家との裁判のため孝景が京都に持って行ったものだが、裁判費用を捻出するためか、孝景が質入れしてしまった。その返還について孝景と清孝の間で文書引き渡しの契約が結ばれたが、孝景は文書を貞孝方に渡してしまった。契約の実行を孝景に求めたが、死亡したため、その後は孝景子時孝に幕府御教書が出されていると。建久二年(一一九〇)と五年(こちらは後年作成の偽文書)の在庁官人等解状に記された内容が、裁判の一方の当事者が主張するもので、事実とは異なっていたことはすでに明らかにしたとおりである。今回の神官申状も在庁官人等解とともに眉唾ものであり、これを事実と思うと本質がみえなくなってしまう。その辺りは両家が保管する分立前の文書の違いを確認すれば一目瞭然である。
 応安元年九月の幕府御教書に基づき仮殿造営のための材木の採取が始まったが、資孝の抵抗で遅れていることも述べるが、前述のように、北島方の権限であったのに千家方もこれに関わろうとするため、生じた問題である。千家方が根拠としたのは当座のものでしかなかった康永三年六月の和与状であった。応安元年一〇月には孝時の子弘乗が父から譲られた田畠の件で資孝の濫訴を退けるよう求めているが、そこで根拠とされたのが孝宗と貞孝の康永三年の和与状であった。最後には守護が資孝と孝宗の裁判に関して両者の持つ手継文書の提出を求めたが、資孝が催促に応じず、病脳と号して伯耆国に赴いたことを批判しているが、一方の主張を鵜呑みにすることはできない。
 この翌年の応安四年一二月には千家孝宗が「国造職兼杵築大社惣検校職」を嫡子直国に譲る旨を記した譲状を作成している。そこには公家・武家の代々御下文とならんで「当社造営旧記・差図」が登場する。分立前に兄清孝の職務を代行していた孝宗もその存在は知っていたが、情報量の多くない差図はいいが、造営旧記がどのようなものであったかは不明であるが、文永一二年に国司に提出した仮殿と正殿造営の目録であろうか。両国造家共有のものであった。『南北朝遺文』はこの孝宗譲状について「疑ハシキモノアレドモ、姑クコ々ニ収ム」とのコメントを付している。『大社町史』ではこの一つ前の別火貞吉起請文写に「文書の内容や年号に若干の疑問あり。検討を要する。」(当方は問題はないと思う)としているが、『遺文』はこちらにはコメントなしである。両者を間違えた可能性があるが、きちんと検討すれば孝宗譲状が異例であることがわかる。孝宗は清孝から「出雲国造・杵築大社神主職并所領等」を「旧記并代々御下文以下文書」を相副えて譲られていた(ただし問題となる譲状にもかかわらず、死に際してのものである事を含めて、その経緯を一切記しておらず、要検討文書である)。にもかかわらず、「神主」ではなく「惣検校」と記している。二年前の神官申状でも相論は「当社国造兼神主職相伝真偽条条」と記していた。この点は親から譲られたのではなく、守護の安堵を根拠とした孝宗が従来の伝統を破棄したためであると二〇〇四年の旧稿で記した。譲られた嫡子の名前にも「孝」の字が含まれていない。当初は「孝」の字を付けていたが、今回の孝宗の決断により改名した可能性が高い。

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