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2020年9月 5日 (土)

文書の声を聴くー差図と譲状5

 直国の孫であった北島六郎三郎高孝は長命であったが、文明一七年(一四八五)三月には、高孝の後継者である孫の塩太郎(後の雅孝)が一五才未満で職務を務められないとして、高孝の子利孝が国造となり、火継を行い、塩太郎が社職と社領を知行することには相違ないとの契約状を出している。高孝は明応五年三月時点でも健在であり、孫塩太郎(丸)はまだ生まれたばかりであったのだろう。過去にもみられた相続争いが生まれる典型的パターンであるが、永正三年(一五〇六)二月には雅孝が国造を継承していることが確認できる。雅孝が庶子家から入って北島国造を相続したとの理解は誤りである。
 『大社町史』では千家国造でも明応四年(一四九五)一一月に国造高俊が子珍宝丸(後の豊俊)に国造職を譲ったが、幼少であり職務を執行できないため、一族の東高頼に神職が預けられている。こちらも永正七年には豊俊が国造となっていることが確認できる。そしてこの雅孝と豊俊が尼子経久の娘を妻とした。両国造家と結んでいた塩冶氏は永正三年に守護京極氏の攻撃を受けて降伏した。その後、両国造家には尼子経久の娘が室として入り、経久の子興久が塩冶氏を継承した。塩冶氏の娘との婚姻関係は確認できず、尼子氏の支配下に入った。
 北島雅孝と経久娘いとうの間には男子が誕生したが、雅孝より先に一七才で死亡したため、相続できなかった。一五才以上であっても前任者が健在なら相続できないのである。大永四年(一五二四)三月に雅孝が国造職をいとうに譲っているのは男子死亡の直後であろう。新たな子が誕生しない場合はいとうが養子を迎えて譲ることまで記しているが、関係者には不満が強かったと思われる。とすると、塩冶氏攻撃の直後にいとうが雅孝の室となり、男子を産んだことになる。なお、国造は男子のみであり、いとうは雅孝が死亡した際の後継者を決定することができるという意味である。千家豊俊には男子がなかったため、甥の新十郎高勝に国造職を譲り、享禄二年(一五二九)九月二二日に尼子経久が安堵している。

 

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