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2020年9月 5日 (土)

文書の声を聴くー差図と譲状6

 これ以降のことについては過去に述べたことがあるので今回はここまでとするが、これまで気付かなかった点を多数確認できた。井上寛司氏が「中世杵築大社の上官」(大社町史研究紀要2、1987)では分立後、千家方優位の体制であったと評価されたが、実態はその逆で北島方優位であった点を確認できた。守護代厳覚が仲介して康永三年六月五日の和与状が結ばれたが、これはあくまでも当座のもので、正統な後継者である北島貞孝からすれば、幕府の裁判で証拠調べが行われれば自らが勝利することは明白であったから、とりあえず受け容れたものである。ただし、述べてきたように孝宗が厳覚を利用して相続しようとしたこともあって厳覚は中立の仲介者とはなりえなかった。貞和五年(一三四九)五月一四日の時点で裏を封じ、それ以降に判決が出されなかったことも不可思議である。しいて言えば、守護が京極氏であったことのみであろうか。それゆえ、南朝支配下では北島方が優位であった。それが京極氏の支配下となると、曖昧にはなるが、造営旧記と差図を有している点で北島方がなお優位であった。ただし、塩冶氏庶子義綱のように、大社に寄進した所領を孝宗が支配することを寄進状に明記する例もあった。
 康暦の政変後は山名氏が守護となり、再び北島方優位となった。一方で、千家方も造営旧記と差図を譲状に明記するようになったが、原本は北島方が所持しておりどのようなものであったかは不明である。今回は山岸氏の論文で指摘された譲状と差図の関係を再確認するため、関係文書をみた。千家方で差図が副えられていた最後の譲状=一四六一年位後に、現在残る「金輪造営図」と「大社神郷図」が千家方で作成されたため、北島方には情報がなかった。北島方とすれば本殿の背後にあった国造館が記されていないことに驚いたであろうが、さらにはこれを根拠に国造館が現在の千家国造館の場所にあったと言われてさらにびっくり。両者の分立に関わる事実関係は両者も熟知しており、どちらが嘘をついているかは当事者には自明であるが、現在にいたるような、歴史を偽造した不可思議な状況が生まれた。
  史料を読み取る力(センス)のない人が論文を書くのは、公害を垂れ流すのと同じく社会に対する犯罪なので、レポートレベルで止めてほしいというのが切実な願いである。研究会が盛んに開かれて議論の後に論文が発表されれば、状況は改善するが、現実はさらに悪化している。言い方を変えれば、力のない人は研究会を盛んにして他の人の意見を聞ける場が増えるよう努力することが自分の役に立つ。さらに過去の論文の誤りは一刻も早く訂正してほしい。

 

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