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2020年9月 8日 (火)

出雲政孝と造営旧記

 出雲政孝は孝房の子で孝綱の弟である。現在の北島・千家両国造は政孝の末裔となる。兄孝綱流に代わって弟政孝流が国造家を継承したのはなぜであろうか。政孝が国造であったのは嘉禄元年(一二二五)から七年間である。国造になったのは前任者である兄孝綱が死亡したことしかありえない。嘉禄元年四月二一日承明門院令旨(大社二〇〇、姉小路親王令旨という名称は意味不明)は、政孝が神主職への補任を求めた事に対して出されているが、領家が政孝を神主に補任したのは嘉禄二年七月であり、条々請文を領家に進めた結果であった。嘉禄元年七月一九日領家袖判御教書によると、五月に元の如く権検校に補任された出雲真高について、政孝が反対意見を述べている。これが神主としてであるか、神主を望む国造として提出した請文の中であるかが問題だが、それに続く部分で神主である孝高が、以前は「領家の命で神主孝高と権検校頼孝が孝元を追い出した」のに、現在は頼孝の子真(実)高が敵人であるとして自由に任せて、真高を権検校に補任すべきではないとあるので、後者が正解である。
 最近見解を修正したように、承久の乱により在庁官人No2の座にあった中原朝臣が国衙庁事と郷司の座を失ったのは確かであるが、大社領は本家が乱に関与しなかった土御門院であったため、影響は小さかったと思われる。よって、乱の前後を通じて神主は中原頼辰と国造の娘との間に生まれた中原孝高であった。建保七年三月一一日「杵築大社散位出雲孝綱」去状のように、国造職と惣検校職を孝綱が舎弟政孝に去り渡すことなど不可能である。孝綱死亡時に孝綱の子と舎弟政孝との間で相続争いがあったが、政孝勝利のポイントは造営旧記の所持であり、嘉禄の仮殿造営時に神主に補任されたのも同様であった。
 造営旧記は建久二年に神主内蔵資忠に代えて国造孝房の神主補任を求めた在庁官人等解に副えられたものであったが、裁判は敗北した。建久元年六月一八日の遷宮の少し前に孝綱が資忠に代わって神主に補任されたが、遷宮後まもなく、神主は資忠に戻された。だが、この短期間の神主補任時に、過去の造営関係史料を抄出して作成したのが造営旧記であった。この時点では国衙にはさらに詳細な史料があり、それを参照すれば、神主が国造でなければならないとの主張に根拠がないことが判明し、この時点での造営旧記の資料的価値はそれほどなかった。それが承久の乱で出雲国衙の有力在庁官人が根こそぎ排除され、国衙が保管していた資料も失われた。そのため造営旧記の価値が一気に高まったのである。建久三年に内蔵資忠が神主に再任されたため、忘れられていた資料を発掘したのが政孝であった。
 政孝が死亡した時点で国造職をめぐり、政孝の子義孝と孝綱の後継者の間で対立があったと思われる。寛喜三年三月二五日出雲政孝譲状は明らかな偽文書である。「譲渡」とくればそれに続くのは所職であるが「可早知行」等という、領家下文か幕府下知状を思わす表現が来ることなど100%ありえないし、惣検校職を譲ることは不可能である。
 鎌倉遺文の編者竹内理三氏が造営旧記は宝治の造営時に写されたとの説を出されたのはいたしかたないが、それ以降、関係史料を精読した人が、これが建久二年に作成されたことに気付かないのは研究者としてなさけない。建治二年二月 日領家下文に、嘉禄造営時に参照すべき旧記がなかったため造営が進まなかったところで、義孝の父国造政孝が重代造営日記文書所持していたがために神主に補任されたと記すのは紛う方無き真実だが、家の日記や譲状を研究する松薗斉氏が、これが事実なら何故以前の紛争時にその所持を主張しなかったというコメントを付し、建築史の山岸常人氏もこれに賛同しているが、ともに一度頭の中をリセットしない限り研究は不可能である。すべての誤りの根源は、造営旧記が建久二年に作成されたことがわからなかったからである。松薗氏と山岸氏のみを批判してもしょうがないが、これが研究のレベルである。
 

 

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