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2020年9月 6日 (日)

松安隆とは誰か?

 宝徳元年(一四四九)一一月三〇日室町幕府御教書(佐々木大膳大夫=守護京極持清宛)によると、八幡宮神人楠葉方が松安隆跡を語らって放生大会還幸を捍置(妨害の意ヵ)し、嗷訴(ごうそ)に及んだ結果、大社神主職と一二郷神領について松安隆跡の権利を認める御教書が出されたが、何らかの理由で召し返された事を、出雲守護京極持清に伝えている。
 楠葉方とは、一五世紀に勘合貿易に従事して巨額の富を得たことで知られる商人楠葉入道西忍の一族であろう。経済力を持った楠葉方が利用したのが大社領に関して権限を有する松安隆跡であった。建武三年時点で国造家と本所=領家雑掌との間で相論が続いていたが、領家とは松殿であった。貞和二年(一三四六)八月にも十二郷内で雑掌と千家国造孝宗が合戦したため、守護代厳覚が幕府侍所に報告しており、この時点でも領家松殿氏は存続していた。
 大社並びに大社領の庄園領主としては永嘉門院の後継者である本家柳原宮と領家松殿氏がおり、「松安隆」で検索しても、当該史料以外は何もヒットしないが、大社領家であった松殿氏の関係者であろう。永徳年中に山科氏が将軍義満の近習という地位を利用して、由緒の子細があると号して柳原宮の権益を奪い、戦国期まで大社領を支配していた。山科氏は鳥羽院の寵臣藤原藤原家成の子実教の末裔であるが、実教は大社領家藤原光隆の娘を妻としていた。これが山科氏が権利を主張した背景だとされたが、よくみると、光隆の娘を母とするのは公頼と公長であり、山科氏を名乗った教成は平業房と丹後局(後に後白河院との間に宣陽門院を産んでいる)の間に生まれ、実教の養子となった人物で、光隆との関係はない。
 一方、教成の養父実教は斎院範子の時期の斎院長官を務め(次官は光隆の子兼隆)、前斎院範子が立后され甥である土御門天皇の皇后宮となった際には勅別当実教が皇后宮権大夫となり、後には大夫となっている。その際の権大夫が光隆の嫡子雅隆であった。大社領は範子から土御門院に譲られており、教成の子孫である山科氏が主張した由緒とは養父実教が本家範子のもとで大社領に関わった権益ではないか。一見すると無理筋であるが、将軍義満の近習という立場があれば無理は十分通るのである。

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