koewokiku(HPへ)

« 文書の声を聴くー差図と譲状1 | トップページ | 文書の声を聴くー差図と譲状3 »

2020年9月 5日 (土)

文書の声を聴くー差図と譲状2

 正平一二年六月一七日後村上天皇綸旨により、仮殿造営と三月会は貞孝が沙汰するよう命じられている。ただし困難が伴う造営は守護の反応ははかばかしくなく、九月一八日にも再度綸旨で命じられている。一方、正平一三年一二月二一日後村上天皇綸旨により千家五郎孝宗に対し、神職として祈祷を行うことが命じられている。北島、千家両方を神職として認めているが、造営・遷宮と三月会は北島貞孝の権限としている。貞孝申状では、孝宗が国造職継承に必要な神火神水を受けていないことを主張し、造営旧記を証拠として提出して造営・三月会の執行を認められた。
 貞治三年(一三六四)八月に山名時氏が幕府に帰参したことで、出雲守護京極導誉による支配が復活した。時氏の嫡子師義はこれに先立つ三月八日の美作国寺院への安堵状で「貞治」年号を使用し、四月二五日には塩冶郷の新たな惣領と思われる人物が塩冶郷内新八幡宮神主職を安堵し、五月一〇日には塩冶遠江守義綱が神門郡塩冶郷内田地一町を杵築大社に寄進し、国造孝宗に領掌するよう命じている。出雲国の支配者の交替を契機に、北島方に対して劣勢であった千家方が京極氏や塩冶氏に働きかけたのだろう。この状況に対して北島方は父貞孝の死亡により神主を継承した資孝が、上聞を掠めた孝宗の不当な訴えを棄損し、南朝時代と同様、自分に造営・三月会を命じるよう幕府に求めている。その際、資孝が孝宗との差別化のため示したのが、神火神水を受けたことと、旧記・差図・神宝を帯していることであった。
 資孝は孝宗について、父孝時が死亡した際に遺骨を拾い触穢不浄身になったため神火神水を受けなかったとするが、弟貞孝が神火神水を受けるために神魂神社に赴いた際に、何らかの理由を申し立てて、同行しなかったのであろう。当然、それは貞孝不在中に国造・神主を守護代厳覚から認めてもらうためであった。これに対して孝宗側が提出した申状は残っていないが、その後の文書をみると、幕府は貞治六年五月には、守護と国造に対して三月会の執行を命じ、孝宗も貞治七年六月三日発給文書では「国造孝宗」と署名している。守護宛文書は両家共有の大社政所に保管され、国造宛文書は千家国造が保管した。一方、幕府は応安元年(一三六八)九月には守護と神主に宛てて仮殿造営を行うよう命じている。守護宛文書は政所に保管され、神主宛文書は北島国造が保管した。応安二年二月には国造宛に守護代と相共に仮殿造営の沙汰を行うように命じ、その文書は北島国造が保管していた。このように権限が分かれたのは造営旧記を北島方が所持していたからであろう。
 応安三年八月二八日には千家方の大社神官一〇名が孝宗と資孝の相論について孝宗を支持する申状を提出している。そこには、孝時から相伝した国造・神主職を清孝が孝宗に譲ったことと、譲状=前述の①は佐草禅光の手跡だということを述べる。次いで、清孝が病気であったため生存中から孝宗が代官として職務を行っていたため、清孝が譲ったとする。清孝が家督を継承したことは、建武年中に兄弟一族神官等の連署状で明らかとし、これも佐草禅光が執筆したものだとする。併せて現在は北島方である禅光の子孫明簡が判形を加えていることも記す。ただし、連署状は清孝と叔父孝景の対立に関するものである。泰孝が両職を孝時に譲った際に、孝時の後継者は孝時の子孫と孝景の子孫の中から泰孝後家覚日が決定することとしていた。孝景は覚日の子であるが、覚日は混乱を避けるため清孝の相続を認めていた。

« 文書の声を聴くー差図と譲状1 | トップページ | 文書の声を聴くー差図と譲状3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 文書の声を聴くー差図と譲状1 | トップページ | 文書の声を聴くー差図と譲状3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ