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2020年9月20日 (日)

藤原光隆の子2

 大社関係文書にみえる領家の花押について再確認する。編纂所花押データベースは井上氏の研究成果を受けたものであるが、前述のように再検討が必要である。
 貞応三年六月一一日領家袖判御教書には「礼紙追而書」が附属し、その袖にも花押がおされている。データベースでは両方とも雅隆の花押としているが、あきらかに追而書は別人の花押である。この年に雅隆が死亡しているが、月日は不明である。結論を言えば、追而書の花押は雅隆の跡を継承した異母弟家隆(子重隆が正しい)のものである。六月一一日の文書を作成して間もなく雅隆が亡くなり、弟家隆(子重隆)が領家を継承したのだろう。領家の文書の基本形は、袖判下文と袖判御教書である。後者は「執達如件」と結ばれ奏者名とともに「奉」と記され、月日のみで年は記されていない。光隆と雅隆父子の文書は公卿として出している。問題は寛喜元年七月 日の袖判である。やや形が崩れており、文書そのものが写である可能性もあるが、家隆(重隆)の花押であろう。次いで、文暦二年の二通のあるが、閏六月八日付の文書は袖判御教書と同形式である。これに対して九月日のものは預所下文に袖判を加えた形で、年が記されている。
 袖判を加えるのは三位のみではなく四位を含むことは『日本史大事典』(平凡社)に記されているが、三位以上の奉書(奏者あり)は特に御教書と呼んでいる。これに対して預所下文に袖判が加えられた文書は建長二年と四年に小槻淳方の袖判を加えたものが残されている(鎌七二一七、七四四三。常陸吉田神社文書)。淳方は正五位下大史夫であり公卿ではない。最近読んだ大島創「最勝光院領備中国新見庄領家職相論の再検討」(『中世荘園の環境・構造と地域社会』)の中で新見庄領家職の保持者としてみえ、偶然の一致に驚いた。文暦二年の二通の花押は同一人物のものであるが、家隆とは明らかに異なり、雅隆に似ている。雅隆の嫡子重隆は寛元三年九月八日に死亡しているが、従四位上であり公卿にはなっていなかった。そのため、領家袖判下文ではなく、預所が日下別行に署判する下文に領家が署判を加える形にしたのだろう。
 重隆の死後はその妻→娘(松殿忠房妻)→孫(松殿忠房子)兼嗣と継承されたのであろう。

 

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