koewokiku(HPへ)

« 藤原顕隆と俊忠 | トップページ | 文書の声を聴くー差図と譲状2 »

2020年9月 5日 (土)

文書の声を聴くー差図と譲状1

 康永二年(一三四三)三月の出雲清孝の死亡により北島貞孝と千家孝宗の対立が発生し、三月会以下の神事があわや合戦という事態のもと実施不能となった。そこで守護代が当座は和与を行うよう求め、幕府・守護の上裁に委ねることとなった。翌康永三年年六月五日に結ばれたのがそのための和与状であった。これを北島は残さず、千家のみ残しているのは北島方の不満が大きかったからであろう。康永二年六月八日付けの国造清孝知行配分状は、清孝死亡後のもので偽文書である。
 幕府での裁判が行われていたのは、関係する①建武元年八月一〇日国造兼大社〔「司」欠ヵ〕出雲孝時譲状(千家文書、清孝へ譲る)、②建武二年一一月二日国造神主孝時譲状(北島文書、あかこまろ=貞孝に譲るが、兄清孝に一期分のみ認める)、③康永二年五月一六日妙善書状(千家文書、清孝から譲られた孝宗が火継を行ったことを記す)の裏が封じてあることからわかる。署判者は諏方円忠と雑賀貞倫で五月一四日付であるが、何故か①③は貞和五年、②は貞和二年である。『大社町史』、『南北朝遺文』によるが、明日のところで、北島文書の影写本で確認する(北島家譜では五年とする。原本の写真は不鮮明だが五であったのが消えたものであろう)。①③の千家方が提出した文書に対しては、北島方が①は謀書で、③は聞いたこともなく知らないと述べている。北島方が提出した②については一字が判読不能ではあるが、千家方も承伏せざるを得なかった。これを見る限りは北島方が千家方に対して裏付けのある事実で優位に立っている。また、清孝から孝宗の譲状そのものは問題となっていない。清孝への譲りが一期分なら無効だというのが北島方の主張であろう、その後、観応の擾乱の発生により裁判は一時中断したと思われる。観応三年(一三五二)八月に山名時氏が伯耆国から出雲国に攻め込んで以降は南朝方が優勢であった。
 南朝の法廷で行われた裁判に関しては正平一二年(一三五七)正月 日北島貞孝申状案(北島文書)が残っている。貞孝は一期のみの相続者であった兄清孝が死亡したので、亡夫孝時の譲状に任せて、神火神水を受けて(本来これは国造職に付随するもの)造営・遷宮や祭礼を勤行しようとしたところ、兄孝宗が守護代吉田厳覚と結んで競望してきたとしている。その最初の対立が三月会であった。兄清孝は三月末に死亡したと思われ、そのため三月会の執行は遅れていた。そこで貞孝は火継神事を終えて正式な国造・神主としての職務を行うため杵築に戻ったところ、兄孝宗が守護代吉田厳覚に死亡した兄清孝からの譲状を示して、国造・神主を相続したと主張していた。現在でも国造関係者以外で国造相続の原理をきちんと理解しているは当方のみであり、不案内な吉田厳覚が知らなかったのも無理はない。

 

« 藤原顕隆と俊忠 | トップページ | 文書の声を聴くー差図と譲状2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 藤原顕隆と俊忠 | トップページ | 文書の声を聴くー差図と譲状2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ