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2020年9月 3日 (木)

藤原顕隆と俊忠

 待賢門院・崇德院流のキーマンとした顕隆と俊忠であるが、史料総覧作成資料で顕隆の系図(尊卑分脈)をみていたら注目すべ記述に出逢ったので確認する。それは藤原家政との間に雅教(1113)を生んだ娘が、その二年後に家政が死亡したため、俊忠との間に、公能室豪子と顕長室俊子等を産んでいることである。この系図は尻付が一行ずれており、最初は実能の室となった娘が後に俊忠の室となり前記二名を産んだと理解したが、さすがに近親すぎる。豪子は公能嫡子実定を産み、俊子は顕長嫡子長方を産んでいる。顕長には德大寺実定の室となった娘や藤原雅長(雅教と顕隆の子顕能の娘との間に生まれる)の室となった娘がいる。以上のように二人のキーマン顕隆と俊忠が結びついた。
 顕隆には中納言雅憲の室となった娘と左大臣実定の妾となった娘も記されているが、前者は該当者不明のため流布本では母の欄は空白で、後者は実定が実能の孫であることからして物理的に不可能である。顕隆は1129年に死亡しているのに対して、実定はその一〇年後に生まれている。公能なら物理的には可能だが極官は右大臣であり、これも近親すぎるので左大臣実能妾が正解であろう。雅憲室については家政の嫡子である中納言雅教室であろう。これなら姉の子との婚姻となり、当時は行われていた。家政の娘は清隆との間に光隆を産むとともに、近衛天皇の乳母にも選ばれた。
 以上、顕隆の娘二人について確認する中で、俊忠並びに德大寺実能との関係が判明した。また顕隆の関係者の間で頻繁に婚姻関係が結ばれていたことも判明した。顕隆の嫡子顕頼も俊忠の娘を正室とし、嫡子光頼以下惟方、成頼、祐子(滋子の母)、頼子(最初頼長の庶長子師長の室となるが、保元の乱で師長が配流されたため離縁し、光頼の子宗頼の室となっている。俊忠の子顕広(後の俊成)が顕隆の嫡子顕頼の養子となったことは有名である。

 

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