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2020年9月29日 (火)

姝子内親王をめぐって1

 姝子は美福門院得子の三女であり、後の高松院である。角田文衞氏は主にその悲劇の後半生について述べている(『王朝の明暗』所収)が、生まれた直後から二人の姉とは扱いが異なっていた。長女叡子内親王と次女暲子内親王が生まれた翌年に内親王宣下を受けたのに対して、姝子は一四才となった久寿元年八月に乙姫宮から内親王となっている。当初は寿子であったが左大臣頼長が中国の古典を引いて縁起が悪い名だと述べたため、姝子に改められた。久寿二年七月には同母兄である近衛天皇が急死したことで、姝子の運命は大きく変えられた。後継者は有力視された崇德院の子重仁ではなく、雅仁の子守仁となったが、形の上では雅仁が後白河天皇として即位し、守仁は皇太子となった。翌保元元年三月に姝子は守仁の妃となる一方で、それ以前に待賢門院の子前斎院統子内親王の養女となっている。長女叡子内親王も高陽院の養女となり、高陽院内親王と呼ばれたが、一四才で死亡している。ただし、姝子が統子の養女となった時期は史料がなく不明である。姝子は末子でもあり母美福門院の下にあり、公的な役割は担っていなかった。内親王となった時期に養女となった可能性が高い。
 佐伯智広氏はこれにより待賢門院領が統子を経て姝子に受け継がれる事を意図したとするが、肝心の統子の所領については曖昧なままである。氏の立論では「崇德院-重仁」を皇統から締め出したとの表現に大きな違和感を覚える。それよりも、白河院-待賢門院の所領を継承する崇德院と統子内親王に対して、異母妹である暲子内親王と姝子内親王の経済的基盤を確保するのが鳥羽院の意図であったと思われる。待賢門院領については野口華子氏が、女院の仏事を主宰している崇德院が管理していたことを説かれたが、その通りであろう。これに対して、女院分国の一部が統子内親王に受け継がれたと思われる。
 白河院政期は本院(白河)とともに新院(鳥羽)の分国が確保されていたが、鳥羽院政下では崇德院の分国のみならず自身の分国も設定されていない。崇德の御願寺成勝寺は天皇在位中の保延五年に供養が行われているが、庄園が寄せられるようになったのは女院が死亡した天養二年八月以降である。何もなければ故女院領は崇德、統子並びに雅仁等に分割されたであろうが、それ以前に保元の乱で崇德が没落したため、女院の御願寺円勝寺と法金剛院の庄園は統子内親王が継承した。女院庁庄園については、崇德院庁分庄園に移行したものは停止され、それ以外は統子内親王が継承した。
 姝子が統子の養子となったのは保元の乱の前であった可能性が高く、統子の分国の継承が想定されたが、乱の直前に鳥羽院が死亡したこともあって、鳥羽院と美福門院の庄園の一部が姝子に与えられていたと思われる。佐伯智広氏の説はどれも今一つ明確な根拠に欠けている。

 

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