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2020年9月19日 (土)

平盛子の母

 樋口健太郎氏『中世摂関家の権力』(2011)を読んでいるが、興味深い内容が多い。それまでの通説が『平家物語』『古事談』等の二次的史料に依存しすぎていたことも感じる。二次史料だから悪いのではなく、個々の内容を一次史料で検討して使う必要がある。系図についても個々について妥当性を判断しなければならない。『中世王権の形成と摂関家』(2018)も併せて購入し、全体を眺めた範囲では系図の利用については、従来の研究と同じく、一部の例外はあるが男系中心で、女系の情報の活用は十分ではなさそうである。
 平盛子は清盛の娘で、樋口氏2011でも第四章で論じられている。全体としては良い論文であるが、盛子の母が時子であった可能性が高いとするのはいただけない。それなら記載がない訳がない。実際に清盛と時子の子としては、宗盛(1147生)、知盛(1152生)、徳子(1155生)、重衡(1157生)がおり、盛子(1156生)を徳子と重衡の間に入れるのは無理である。三人が誕生した月日は不明であるが、盛子を時子以外の女性が産んだことは疑う余地がない。樋口氏は『玉葉』に「盛子が建春門院といささか由緒ある人で、その旧意を記憶していた」ため、建春門院の仏事に際して捧物を多く調進したかと記されていることを根拠としている。問題は由緒である。建春門院滋子(1142生)は平時信とその正室祐子との間に生まれている。祐子は藤原顕隆の嫡子顕頼と藤原俊忠の娘との間に生まれている。時子(1126生)・時忠(1130生)の同母妹が顕隆の異母弟親隆との間に生んだ親雅の生年(1145)を考えると、同母妹は時忠の姉と思われ、三人の母は時忠を生んでそう遠くない時期に亡くなった可能性が高い。これに対して祐子の長子と思われる建春門院女房冷泉局は一一四〇年頃の生まれで、祐子は一一二〇年頃の生まれとなり、顕頼の嫡子光頼(1124生)の同母姉となる。
 承安三年六月に時子が八条持仏堂の供養を行った際に、藤原重方・重頼父子が参集したのは時信の正室祐子が重方の従姉妹(祐子の父顕頼と重方の父顕能は同母兄弟)であったことはすでに述べた通りであるが、この事実を述べた『吉記』の記主吉田経房は周囲の人にも聞いたが「由緒が不明」と記していた。盛子の母も藤原顕隆と忠俊の関係者ではなかったか。盛子の夫藤原基実の最初の室は顕頼の娘と藤原忠隆との間に生まれ、信頼の同母妹であった。基実が忠隆の娘を正室としたのに対して、基実の一才下の異母弟基房が三条公教の娘を正室としたのは忠通が基房を重視していたからとの樋口氏の説があるが、どうであろうか。ポイントとしては、基実の結婚は平治の乱の前であり、基房の結婚は長子隆忠の生年(1163)からして乱後で、公教の死(1160)後である。基実と忠隆娘との結婚の時点で、同母兄信頼は二七才で正三位権中納言兼右衛門督であるのに対して、公教の子で最も高位にあった実国は二〇才で正四位下、嫡子実房(母は藤原清隆の娘)も一三才で正四位下であった。基実と忠隆娘の結婚を元木泰彦氏のように、忠通が信頼に屈服したと評価できるかは問題だが、その時点では信頼の方が公教の子達より出世する可能性は高かった。
 樋口氏前掲書により盛子は夫基実の死の翌年に准三后とされたが、その際に、「専子」「盛子」の二案から選ばれて盛子となったことを知った。その前の名前が分かれば、その母を知るヒントにはなるだろうが、時子の同母妹とする樋口氏の説は成り立たない。

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