koewokiku(HPへ)

« 九月中旬の近況 | トップページ | 九月中旬の近況2 »

2020年9月15日 (火)

義親の乱の補足

 乱の再検討を行ったが、それに対する疑問もあるかもしれないので補足する。
 義親が配流先の隠岐に渡らなかったかのように記す『百錬抄』の記事であるが、不正確なことは、義親が去年(鎮圧された前年)に隠岐国に配流されたが、出雲国に留まったとする点からもあきらかであろう。『古事談』にも配所に赴かず出雲国を経廻して悪事を発し、目代を殺害したと記す。その元となった資料が問題だが、『中右記』嘉承二年六月二〇日条に、「流人義親事」がその日の議題の一つとしてあったことを記すが、具体的な事は何も記されていない。考えられることは、配流先の隠岐を抜け出して出雲国に渡ったことか、その配流処分の解除ぐらいである。『大山寺縁起』には隠岐島を打ちなびかして出雲国に渡ったとあるが、隠岐国や出雲国でそのような事実があれば『中右記』や『殿暦』に記事が残り、もっと早く対応したはずである。
 『中右記』の記事から半年後の『殿暦』十二月一九日条に、因幡守平正盛が追討のため出雲国に下向したことが記されるが、その原因としては出雲目代を殺害したことのみ記される。そして嘉承三年正月六日に出雲国に到着した正盛はその日の内に義親と類従五人(出雲国からの解では十二人)を殺害した。これだけである。義親に同意する輩がいるとの聞こえがあるとするのは、正盛の勧賞に関する議論の中で、前例に準ずべきだとする意見が大勢な中で、「但し」として民部卿(『松江市史』には人物比定がされていないが、白河院に意見を直言したことで知られる源俊明である)が付け加えたものである。『中右記』二三日条には「配所を棄て出雲国に越え渡り目代(と郎従七人)を殺害し、調庸を推し取った」とのみある。ここからも義親軍と国衙軍が衝突したのではなく、義親が目代を急襲したテロであったことがわかる。
 関連して、『松江市史』編纂時は日記に関する認識が十分ではなかったが、『中右記』の活字本として「増補史料大成本」とともに、未完結であるが「大日本古記録本」ならびに、これに依拠した『大日本史料』の当該記事がある。『鳥取県史』では「収録は可能な限り原本・原本写真・拓本・影写本に拠ったが、原本調査が困難なものについては、近世以降の複製資料や活字資料をもとに採録した」とある。島根県史ならば同様の方針で編纂されたであろう。今思えば、最新の活字版があるものはそれを利用すべきであった。前述のように、伯耆守から尾張守に遷任した高階為遠(その子家行は待賢門院判官代で、女院分国の出雲と安芸の国守となった源光隆を補佐。女院の死後は摂関家家司として活動)がまごうかたなき白河院近臣であったにもかかわらず、近臣ではないとされた(「不候院人」は「又候院人」の誤り。佐伯氏のみならず松江市史通史編にも近臣ではなかったと記す)。また大成本にはみえないが古記録本には大社への奉幣記事が収録されていた。この記事は『大社町史』にも未収録である。このような点は『中右記』以外についても当てはまり、補遺編作成の際に、『親元日記』活字本未収録で未知の宍道氏関係史料(宮内庁書陵部本)に出逢って驚ろかされた。当方は宍道氏関係史料は『宍道町史』に依拠しており、自分で探したことはなかったが、たまたま遭遇した。網羅的、且つ基礎的作業は古代出雲歴史博物館に期待するしかないが、中世後期を専門とする人のみである。

« 九月中旬の近況 | トップページ | 九月中旬の近況2 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 九月中旬の近況 | トップページ | 九月中旬の近況2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ