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2020年9月27日 (日)

然阿上人について

 僧については不案内で、且つ今日の夜まで史料編纂所のデータベースが利用できないが、とりあえず述べてみたい。必要があれば追加・修正する。
 注目したのは浄土宗の然阿上人が石見国三隅で生まれ、母が伴氏という点であった。この点についてはブロクの読者からの教示による。史料そのものは鰐淵寺との関係で井上寛司氏も注目され、承知していたが、その内容に注目していなかった。これまで伴氏は益田氏と同様、石見国在庁官人系と理解していたが、一方では参河国から入部したとする伴氏もおり、最近では石見国外からの入部説に傾きつつあった。南北朝中期まで赤穴庄地頭であった紀氏もその母が伴氏であった。
 然阿上人の父円尊は藤原師実の末裔で、比叡山での修行後、石見国に移住し、遁世後は法阿と号し、九三才で往生している。円尊の父堀河宰相頼定は、嘉応二年一二月三〇日に参議に補任され、治承五年三月一八日に五五才(補任による。分脈では五八才)で死亡している。頼定の父は藤原経実で、藤原師実の三男である。経実の異母兄が堀河天皇とともに政治を主導した関白師通である。頼定の父経実の兄弟で最も有名なのは、隆通か。ピンとこなければ、鹿子木庄領家=預所で国衙の乱妨が防げずに、高陽院内親王(美福門院の長女で高陽院泰子の養女となるが早世。実教出版が日本史教師向けに配布している冊子では庄園成立史の専門家?が泰子に比定しており、その無知蒙昧さに驚かされる。自分の足下のことしか知らないでは研究者はつとまらない)に寄進した願西である。一般的には晩年の子でありながら、待賢門院の甥であることで嫡子となった経宗が有名である。経宗は二条天皇派の中心となったが、二条の死後は後白河、平家との関係を構築し、生きのび、その子孫は大炊御門家を名乗る。
 話を戻すと、円尊の兄弟で生年が分かるのは公卿になった資頼(一一四八年)と頼房(一一七六年)であるが、子然阿が一一九九年の生まれからすると、円尊は両者の間に生まれか。頼房は治承五年に最愛子として頼定から摂津国倉殿庄と杭瀬庄を譲られている(尼崎市史研究114)。円尊が三隅に移ったのは寺院間の問題が主であろうが、一方で、建久三年七月一二日に石見守に補任された藤原経成は円尊の従兄弟基定の子である。前述のように経成が嘉禄二年正月に土佐守に補任された際は九条教実が知行国主であり、建久三年時は教実の祖父良経が石見国主であった可能性が大きい。経成の父成定は兼実の娘任子(宜秋門院)の別当を務めていた。
 然阿の母の実家伴氏で三隅の近くに所領を持っていたのは河上氏である。河上氏は江川沿いの河上郷、都治郷とともに那賀郡久佐・長屋・佐野を支配していた。伴姓の都野氏(那賀郡)、出羽氏(邑智郡)、波祢氏(安濃郡)も同族であった可能性が高い。伴氏が那賀郡から安濃郡まで所領を支配していたことから、益田氏とならぶ有力在庁官人であったとの説も可能である。河上・都治氏は系図では南北朝期に信濃国から入部したとするが、これは動乱の中で河上氏が置かれた厳しい状況が反映されていよう。反幕府方から降伏して幕府方に転じたが、石見守護に高師泰を起用して反幕府方を鎮圧する作戦は最後の三隅城を落とす前に反幕府方と足利直冬方が結び付いて、師泰方は石見国から敗走し、河上城は反幕府方の攻撃を受けて落城した。河上氏はその過程で反幕府方の中心であった福屋氏によって那賀郡久佐等を奪われてしまった。反幕府方であった国人の多くは一旦降伏しても、起き上がり小坊師のように、すぐに反幕府の活動に戻ったが、河上氏は幕府方に転じたままであったことが結果として裏目に出た。
 然阿上人と伴氏女子の結婚も伴氏が国御家人であっても可能だが、国御家人なら益田氏の関係者もおり、その意味でも鎌倉初期に恩賞を得て石見国に入部したと考えた方か良いのではないか。久しぶりに石見国に関係した記事となった。

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