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2020年9月 9日 (水)

出雲大社造営年略

 標題の史料は東大史料編纂所に写本が所蔵されている。写本の作成は明治一五年頃とされ、内容は明治一四年までを記している。内容からすると、政府の方針で大社の祭祀が分立時の兄である千家国造に一本化されたことを受けて作成されたものであろう。歴史史料としては史料批判なしには使用できないもので、分立後の大社遷宮は寛文七年まではすべて千家国造が行ったことになっている。それが延享元年の遷宮は両国造が行ったが棟梁は北島国造が行ったことが記されている。その末尾の解説には、𨨞始・柱立・棟上・遷宮の四規式あり、古来は四式ともに千家国造が棟梁であったが、慶長年間の造営時に堀尾氏の仲裁で柱立と棟上が北島国造が棟梁とされたこと、寛文七年に松平氏の仲裁で四式は両家が交替で行うことになったことを記す。それによって延享元年の遷宮の棟梁が北島国造とされた。
 以上により資料的価値は高くはないが、ここで注目したのは、天永三年と建久元年の遷宮に関する記述である。建久二年の写し間違いにより混乱が生じたが、ここでも永久二年六月六日と永久三年六月一八日の両方に遷宮が行われたことが記されている。執行したのは国造兼宗である。ただし、それに先立つ天仁元年一一月一五日の仮殿遷宮は「国造兼忠」が行ったとしている。兼宗とすべきところを誤ったのであろうが、チェックが不足している。
 建久元年の正殿遷宮に先立つ仮殿遷宮についても、承安二年一一月一九日と安元元年一一月一九日の二つを記し、いずれも国造兼経が執行したとする。多くの造営の記録では「国造兼神主出雲宗孝」が執行したとされているのになぜであろうか。答えは国造の家譜ではその時点の国造は兼経とし、神主であった宗孝が国造を兼ねたのは安元二年からとなっているからである。兼経系との国造をめぐる争いは「今ハ昔」となっており、このように書いたからといって、国造を交替せよとの要求がでないためである。ただし、実際に仮殿遷宮が行われたのは治承三年一一月で、それ以降、正殿造営が開始されたので出雲守藤原朝定が治承五年正月に重任を認められたことはすでに述べた通りである。ちなみに『出雲国造家文書』巻末の系譜では、承安二年一一月一九日に兼経が仮殿遷宮を行い、安元「二」年一一月二九日に宗孝が仮殿遷宮をしたと記している。
 家譜では仁安三年から足かけ九年間兼経が国造を務め、その死亡後、宗孝が安元二年から一〇年間国造であったとする。ところが、国造北島氏系譜抄録(『出雲国造家文書』242)には兼経の在任期間が一八年となっており困惑したが、これでは孝綱五四年、政孝三〇年以下国造の在任期間が実際よりかなり長くなっており、信頼性にかける。家譜の在任期間で問題なかろう。一七世紀半ばに千家国造が後代の為に書き置いたとする記録があり(『新修島根県史』史料編)、主に日御崎神社との対立について述べられていたが、守護の裁定で敗れた事例もすべて勝訴したと書かれており、裁判がらみの史料の使用には注意が必要である。ただし悪いのは見抜く力のない研究者であると思わない限り、進歩はない。

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