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2020年9月10日 (木)

千家家譜の記述から

 従来、大社本殿の高さとの関係で「北島家譜」を見る機会が多かったが。「千家家譜」と「北島家譜」で扱いが違う点について述べる。編纂所謄写本「千家家譜2」による。
 大化の改新で知られる孝徳天皇の代以降、出雲氏が国造を代々世襲してきたが、国造孝房の時期に弟石王冠者が国造の地位を望み、兄弟の対立が発生したが、冠者は杵築を追われ、須佐国造の家を相続したと記す。石王冠者は国造兼経の子で孝房の兄弟ではないことは、安元二年一〇月 日出雲国司庁宣と建久五年三月ヵとされる出雲国在庁官人等解によりわかる。両方とも偽文書であるが、北島家譜はこの二通の文書に即した内容の記述で、関係系図を記している。千家家譜の記載は後に生まれたものであろうが、両方とも共通して七月一七日前信濃守佐々木泰清書状を根拠に挙げている。文治二年のものとしているが文永年間のものである。
 続いて孝綱が子政孝に神主并惣検校を譲り、政孝の孫泰孝の時に、内蔵資忠の玄孫実政との間に神主・惣検校をめぐる対立があったとする。政孝は北島家譜では孝綱の弟とされているし、出雲氏の一族である内蔵資忠の玄孫が実政と聞いてまたびっくり。資忠と実政はともに出雲氏であるが、千家・北島家では最終的に在庁官人を父に持つ中原孝高のみならず、内蔵氏と真高・実政父子も中原姓にしてしまった。研究者の大半もこの嘘に引っ掛かってしまった。これに続いて、北島貞孝と千家孝宗の対立が千家国造の立場から述べられ、次いで近世の寛文七年の永宣旨に一気にとんでしまう。
 その後、両国造家の分立について千家国造側の主張が詳細に述べられている。掲載されている永徳三年一〇月二八日国造出雲資孝契約状についてもその解釈は微妙である。永徳元年六月二七日資孝注進状では「国造兼大社神主惣検校」と記しているが、永和元年四月 日目安状には「国造資孝代国孝」と記しており、「国造」のみで「神主」や「惣検校」を記していないので偽文書であるとまでは言えない。一応正しい文書として扱うと、国造家の分立に不満があったのは正統な後継者であった北島国造家だったことがわかる。永和元年目安状のように両国造家で協力して押領に対処すべき場面もあるし、北島資孝の子幸孝と千家直国の娘が結婚し、その間に生まれた高孝が北島国造家の後継者となった。千家側でも理由は不明だが直国の子ではなく嫡孫高国が千家国造家の後継者となっている。前述のように、直国は晩年の子に所領を譲った際には、惣領高国が違乱をなした際は、直国の孫である北島高孝に付くようにとまで述べている。仮定の話であるが、高孝が両国造家を相続し、一本化を図ることも可能ではなかったか。千家高国の代に偽文書や金輪造営図や大社近郷図、さらには嘉吉二年八月一五日付の両国造神官系譜を作成した背景にも、千家国造の後継者である高国の意思があったのではないか。 

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