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2020年9月10日 (木)

文書からの仏教的要素の排除2

 こうした中で、康永二年三月に国造兼神主清孝が死亡すると、国造家は北島国造と千家国造に分かれた。守護代が当座の対立を回避するために異例の措置を執ったが、結果的には分立が継続していった。大社政所文書とは国造家が分立するまでに国造家が保有した文書で、狭義の政所文書を吸収していた。分立以降も、両国造家それぞれが保管する文書と、大社政所に保管される文書は区別された。具体的には、幕府が守護に命じ、さらにそれを国造に伝えた場合、守護宛の文書は政所に保管された。北島・千家両国造家の権益の区分も、その時々の出雲国の支配者との関係で変化しており、康永三年の和与状とは異なっている。その権益に応じて、国造宛の文書の保管先が決まった。一四世紀第三四半期の守護京極氏のもとでは、造営は旧記を所持した北島国造、三月会は千家国造が担当していたことが文書の保管状況から分かる。
 明治六年三月まで両国造家文書とは独立して存在した政所文書は、千家国造家が大社の祭祀を独占的に担うことになったため、千家文書に吸収されてしまった。それ以前の歴史を扱う際には、本来の文書の所蔵先を踏まえて分析しないと虚像を描いてしまうことになる。分立以前の文書で北島国造が所蔵した文書の特色として、領家との間で神主の補任権と大社領の支配権をめぐる裁判が行われたが、その主張の証拠とされた文書と、祖父である国造泰孝並びに後家覚日と父である国造孝時の文書が中心となっている。これに対応する時期の千家国造家の文書は兄である国造清孝の文書が中心であるが、その数は少ない。覚日と孝時により、清孝は一期分の国造とされたため、関係文書は清孝の死後に国造となることが決まっていた貞孝のもとに残された。前述のように貞孝が国造となる年齢に達するまでに孝時が死亡する事態となったため、清孝を一期分の国造とせざるを得なかった。貞孝は相続までは狭義の大社境内内で本殿の後方にあった国造館にいた。これに対して一期分の国造とされた清孝とそれを補佐した孝宗は境内の外で本殿の西側にあった神主館にいた。これが一五世紀に作成された可能性が大きい大社神郷図で、神主館が大きく描かれ、国造館が明確に描かれなかった原因となった。その外に文保二年一一月一四日国造孝時去渡状(大社355)と康永二年六月八日国造清孝所領配分状(大社454)も同時期に作成された。後者は永享三年七月二八日国造高国所領配分状(大社685)を念頭に作成されており、作成時期はそれ以降である。但し、千家家譜では「六月」の部分が「〇月」となっている。六月ではすでに清孝は死亡しておりまずいことに気付いたのだろう。高国の時代には誰でも偽文書であるとわかる杵築大社両国造神官系譜(大社709)も作成されている。
 なお古代文化センター編『出雲大社文書』は解説もそうだが、結果的に間違いが大変多い書物である、早急に改訂の上再発行されなければならない。先行した『大社町史』の誤りをそのままひきづったものが多いが、きちんと再検討した上で刊行すべきであった。例えば、建武五年の後醍醐天皇綸旨などは存在するはずのない文書であるが、『大社町史』(1997)そのままに掲載している。正しくは建武二年の綸旨である。(一三三八)の注記があり誤植でないことは明白である。『南北朝遺文』(1987)では流石に同日付の綸旨(名和文書)とともに掲載しているので二年となっている。

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