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2020年9月29日 (火)

姝子内親王をめぐって3

 藤原長成の父忠能は経忠と公実の娘との間に生まれており、これまた白河-待賢門院-崇德系に属し、参議まで進んだ。母は長忠の娘で、その姉妹は藤原基隆の正室となり、嫡子忠隆、弟経隆(出雲守)を産んでいる。源義朝との間に阿野全成や義経を産んだ常磐を後妻としたことで知られている。忠隆の子基成は陸奥守を務めた関係で娘を奥州藤原氏秀衡に嫁がせており、義経が奥州へ下ったのは義父長成とその従兄弟忠隆の子基成との関係が背景にあったとされる。
 平頼盛についてはいわずもがなであろう。その父忠盛、母池禅尼ともに待賢門院-崇德との関係が深かった。最後の藤原家頼は忠隆と顕頼の娘公子の間に生まれ、信頼や基実の妻と同母兄弟である。ということで、すべてが待賢門院-崇德系の人々を起用したものであった。これを切り崩しとみることも可能だが、姝子の将来のために有力な家臣を起用し、鳥羽院政下では指名された側がこれを断る理由はないというのが実態ではないか。それは藤原顕頼、藤原家成、藤原清隆の場合も同じである。姝子を統子内親王の養女にしたことと矛盾していない。
 職事のメンバーについても同様である。右近少将行通は信通の子で成通の甥である。源定房は源雅兼と源能俊の娘を母とし、幕府・頼朝と早くから連携していた雅頼の同母弟である。一四才で父が死亡したため、年上の従兄弟源雅定の養子となっていた。残りは三条公教(母は顕季の娘)の子滋野井実国、公教の同母弟公行の子実長、顕頼の子惟方、得子の甥隆輔(長輔の子)である。
 保元四年二月に姝子は二条天皇の即位にともない、中宮に立后された。その際の大夫藤原重通は成通の同母弟である。権大夫信頼は家頼の同母兄で顕頼の娘が母であった。亮季行は前述の通り。権亮藤原信能は中御門宗能と得子の姉妹との間に生まれ、その姉妹が季行の室で姝子の乳母であった。というように、内親王家の家司とその関係者である。その中に源義朝と波多野義通の間に生まれた朝長が中宮少進としてみえる。異母弟頼朝が統子内親王の立后時に皇后宮権少進となっている点は姝子が統子の養女となっていた点からすると全く矛盾しない。朝長と頼朝の名前も、義朝の朝に頼長の長を付けた朝長、頼を付けた頼朝と一貫性がみられる。
 前に「藤原季行と嫡子定能」や「藤原顕輔」の記事を作成した時点ではよくわからなかった点が明らかになった。長実の同母弟顕輔の子重家も当初は待賢門院-崇德との関係が中心であったが、女院の死後は摂関家や美福門院との関係もみられるようになった。それぞれは複数の関係のもと行動しているのである。

 

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