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2020年9月 5日 (土)

文書の声を聴くー差図と譲状4

 康暦の政変(1379)により出雲守護は京極氏から南朝時代の状況を知っている山名氏に交替した。義幸は師義の嫡子である。永徳元年四月二日出雲守護書下は宛名以外は同文であり、国造職の相論により仮殿遷宮(造替は終了)が遅れているとして、裁判の判決を急ぐので、対立は休戦し遷宮を早く遂げるよう、両国造に命じている。六月二七日に北島資孝が元亨年間の仮殿遷宮の儀式を報告しているのはこのためであろう。そこでは「国造兼大社神主惣検校」と署名しているが、千家方が惣検校職を持ちだしたためであろう。この時の遷宮は北島方が行っている。
 その後の関係史料としては、応永一〇年七月一〇日に資孝・幸孝父子が今後は千家国造の相続時に支え申すことはしない旨を約束した書き違え状がある。ただし、北島文書にはなく千家文書にのみ残っている。これに対して応永一四年八月に資孝・幸孝父子が領内の狼藉への対処を定めている。これも千家文書にのみ残っているが署判順は書き違え状とは逆(資孝が先)である。年未詳霜月一三日北島資孝・佐草泰信連署書状(秋上宛)では上位者資孝が先に署名している。この点からすると、書き違え状は要検討である。
 ただし両家の和解は進んでいたようで、資孝の子幸孝は千家直国の娘と婚姻関係を結び、資孝と直国の共通の孫北島六郎三郎が誕生していた。応永二四年一二月には資孝が国造・大社神主職を旧記・差図、関東下知状以下の社家の古記をゆや六郎に譲っている。ただし、三郎に子がない場合、譲状を「内ハう」に渡してはならないとしている。「内ハう」とは三郎(=六郎三郎)の母=千家直国娘であろう。『出雲国造家文書』の編者村田正志は三郎を資孝の子幸孝に比定しているが、貞孝以来の北島国造惣領は六郎である。三郎に子がなく、国造・神主職が千家方に移ることは許されないとしている。子がない場合は北島方の関係者に譲れとの意味であろう。北島六郎三郎とは北島家の嫡子を示す「六郎」と千家国造直国にちなむ「三郎」にちなむ仮名である。直国の嫡孫は助三郎高国であった。応永二七年正月に直国は晩年の子であろう与三通国に分与した所領に惣領高国が違乱を成す場合は、孫である北島六郎三郎方に付くように置文を作成している。
 直国は応永三五年(一四二八)二月に嫡孫子高国への譲状を作成しているが、初めてのものではなく何回目かのものであろう。「国造兼大社神主惣検校」と記しているのは北島家との和解によるものであろう。これ以降は国造と惣検校のみとなり、分立後千家方が神主職を使用した唯一の例である。ここでも「当社造営旧記差図」がみえる。北島国造では資孝の子幸孝をとばして孫である六郎三郎高孝に譲り、千家国造でも直国の子ではなく孫高国に譲っている。嘉吉元年(一四四一)一〇月には幸孝が後家分の所領を関係者に譲っているが、国造・神主職については言及していない。後家とは資孝の後家であろう。文安六年(一四四九)三月には高国が嫡子持国に「国造職兼大社惣検校職」を譲っているが、そこには「当社造営旧記・差図」が相副えられている。それは寛正二年(一四六一)五月の千家持国譲状でも同様で、嫡子助三郎直信に譲っている。

 

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