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2020年9月

2020年9月29日 (火)

姝子内親王をめぐって3

 藤原長成の父忠能は経忠と公実の娘との間に生まれており、これまた白河-待賢門院-崇德系に属し、参議まで進んだ。母は長忠の娘で、その姉妹は藤原基隆の正室となり、嫡子忠隆、弟経隆(出雲守)を産んでいる。源義朝との間に阿野全成や義経を産んだ常磐を後妻としたことで知られている。忠隆の子基成は陸奥守を務めた関係で娘を奥州藤原氏秀衡に嫁がせており、義経が奥州へ下ったのは義父長成とその従兄弟忠隆の子基成との関係が背景にあったとされる。
 平頼盛についてはいわずもがなであろう。その父忠盛、母池禅尼ともに待賢門院-崇德との関係が深かった。最後の藤原家頼は忠隆と顕頼の娘公子の間に生まれ、信頼や基実の妻と同母兄弟である。ということで、すべてが待賢門院-崇德系の人々を起用したものであった。これを切り崩しとみることも可能だが、姝子の将来のために有力な家臣を起用し、鳥羽院政下では指名された側がこれを断る理由はないというのが実態ではないか。それは藤原顕頼、藤原家成、藤原清隆の場合も同じである。姝子を統子内親王の養女にしたことと矛盾していない。
 職事のメンバーについても同様である。右近少将行通は信通の子で成通の甥である。源定房は源雅兼と源能俊の娘を母とし、幕府・頼朝と早くから連携していた雅頼の同母弟である。一四才で父が死亡したため、年上の従兄弟源雅定の養子となっていた。残りは三条公教(母は顕季の娘)の子滋野井実国、公教の同母弟公行の子実長、顕頼の子惟方、得子の甥隆輔(長輔の子)である。
 保元四年二月に姝子は二条天皇の即位にともない、中宮に立后された。その際の大夫藤原重通は成通の同母弟である。権大夫信頼は家頼の同母兄で顕頼の娘が母であった。亮季行は前述の通り。権亮藤原信能は中御門宗能と得子の姉妹との間に生まれ、その姉妹が季行の室で姝子の乳母であった。というように、内親王家の家司とその関係者である。その中に源義朝と波多野義通の間に生まれた朝長が中宮少進としてみえる。異母弟頼朝が統子内親王の立后時に皇后宮権少進となっている点は姝子が統子の養女となっていた点からすると全く矛盾しない。朝長と頼朝の名前も、義朝の朝に頼長の長を付けた朝長、頼を付けた頼朝と一貫性がみられる。
 前に「藤原季行と嫡子定能」や「藤原顕輔」の記事を作成した時点ではよくわからなかった点が明らかになった。長実の同母弟顕輔の子重家も当初は待賢門院-崇德との関係が中心であったが、女院の死後は摂関家や美福門院との関係もみられるようになった。それぞれは複数の関係のもと行動しているのである。

 

姝子内親王をめぐって2

 本記事はここから本論に入る。姝子が内親王となったことで、内親王家の家司と職事が補任された。勅別当が大納言藤原成通で、家司は土佐守藤原季行、刑部卿藤原雅教(年預でもある)、但馬守藤原長成、常陸守平頼盛、長門守藤原家頼であった。職事については必要に応じて言及する。
 成通は白河院近臣宗通と顕季娘との子であり、同じく近臣であった藤原敦兼と藤原基隆の娘を妻としていた。姝子の母得子は顕季の孫にあたる。後継者には恵まれず、兄為通の子泰通と源行宗の子有通を養子にしている。為通は崇德天皇との関係が深かったが四三才で死亡し、その時点で源師頼の娘との間に生まれた泰通は一二才でしかなかった。源行宗が実仁・輔仁親王と輔仁の子有仁に仕えていたことと、崇德の子重仁内親王を産んだ兵衛佐局を養女としていたことは既に述べたとおりである。
 季行は前述の敦兼の子で、敦兼の知行国の国守を歴任するとともに、待賢門院御給で叙爵し、前斎院統子御給で従五位上に叙せられているように、白河-待賢門院-崇德系に属していた。それが康治二年正月に皇后(得子)御給で正五位下に叙せられており、この頃、姝子の乳母(妻である藤原宗能の娘)夫となったのであろう。宗能の父である『中右記』の記主中御門宗忠も白河-待賢門院-崇德系に属する一方で藤原忠実との関係を有していたが、叔父宗通が白河院により重用されており、宗通後家との間の庄園をめぐる対立の解決は白河院没後に期待していた。季行には同母兄季兼がおり庶弟であった。
 雅教は藤原家政の嫡子であるが三才時に父が三五才で死亡した。母である顕隆の娘が、その後俊忠との間に豪子と俊子を産んだことは前述の通りである。六才で叙爵し、一一才となった保安四年正月に白河院分国越後の国守に補任されたのは母方の祖父顕隆の力であろう。次いで白河院没後の大治四年一二月二五日の除目で遠江守に遷任しているがなお一七才であり、知行国主がいたはずである。祖父顕隆は同年正月に死亡しており、その嫡子で顕頼が国主であろう。五味文彦氏作成の表では大治二年正月に養子顕広(俊忠の子)を国守に補任された美作国が顕頼知行国の初見で、顕広はその後加賀守をへて遠江守に遷任しているが、それは雅教との相博であった。それが近衛天皇即位直後の永治二年正月に皇后宮(得子)給で正五位下に叙されているのは、姉家子(同母である可能性が大きいか、系図には記載なし)が体仁親王(近衛)の乳母となり、その夫清隆が春宮亮に起用され、同じ除目で正四位下から従三位をとばして正三位に叙せられたのと同様の背景によるのだろう。Wikipediaでは鳥羽院庁別当を務めた功績で仁平三年に従四位上に叙され刑部卿に補任されたとするがその記述の根拠は不明である。はっきりしているのは従四位下、従四位上は美福門院御給、正四位下は一院(鳥羽)長承三年未給という名目であり、姉家子が近衛天皇の乳母であったことが大きかった。雅教が院庁下文と院庁牒の署判者としてみえるのは平治の乱の前後の後白河院庁の各一通(権中納言藤原朝臣)のみである。保元の乱の直前の三月に右中弁から蔵人頭を兼ね、四月には左中弁に転じており、乱では藤原忠実・頼長父子による武士の動員を禁じた命令の奏者を務め、乱後の九月には参議に補任されて公卿になるとともに、左大弁を兼ねた。

姝子内親王をめぐって1

 姝子は美福門院得子の三女であり、後の高松院である。角田文衞氏は主にその悲劇の後半生について述べている(『王朝の明暗』所収)が、生まれた直後から二人の姉とは扱いが異なっていた。長女叡子内親王と次女暲子内親王が生まれた翌年に内親王宣下を受けたのに対して、姝子は一四才となった久寿元年八月に乙姫宮から内親王となっている。当初は寿子であったが左大臣頼長が中国の古典を引いて縁起が悪い名だと述べたため、姝子に改められた。久寿二年七月には同母兄である近衛天皇が急死したことで、姝子の運命は大きく変えられた。後継者は有力視された崇德院の子重仁ではなく、雅仁の子守仁となったが、形の上では雅仁が後白河天皇として即位し、守仁は皇太子となった。翌保元元年三月に姝子は守仁の妃となる一方で、それ以前に待賢門院の子前斎院統子内親王の養女となっている。長女叡子内親王も高陽院の養女となり、高陽院内親王と呼ばれたが、一四才で死亡している。ただし、姝子が統子の養女となった時期は史料がなく不明である。姝子は末子でもあり母美福門院の下にあり、公的な役割は担っていなかった。内親王となった時期に養女となった可能性が高い。
 佐伯智広氏はこれにより待賢門院領が統子を経て姝子に受け継がれる事を意図したとするが、肝心の統子の所領については曖昧なままである。氏の立論では「崇德院-重仁」を皇統から締め出したとの表現に大きな違和感を覚える。それよりも、白河院-待賢門院の所領を継承する崇德院と統子内親王に対して、異母妹である暲子内親王と姝子内親王の経済的基盤を確保するのが鳥羽院の意図であったと思われる。待賢門院領については野口華子氏が、女院の仏事を主宰している崇德院が管理していたことを説かれたが、その通りであろう。これに対して、女院分国の一部が統子内親王に受け継がれたと思われる。
 白河院政期は本院(白河)とともに新院(鳥羽)の分国が確保されていたが、鳥羽院政下では崇德院の分国のみならず自身の分国も設定されていない。崇德の御願寺成勝寺は天皇在位中の保延五年に供養が行われているが、庄園が寄せられるようになったのは女院が死亡した天養二年八月以降である。何もなければ故女院領は崇德、統子並びに雅仁等に分割されたであろうが、それ以前に保元の乱で崇德が没落したため、女院の御願寺円勝寺と法金剛院の庄園は統子内親王が継承した。女院庁庄園については、崇德院庁分庄園に移行したものは停止され、それ以外は統子内親王が継承した。
 姝子が統子の養子となったのは保元の乱の前であった可能性が高く、統子の分国の継承が想定されたが、乱の直前に鳥羽院が死亡したこともあって、鳥羽院と美福門院の庄園の一部が姝子に与えられていたと思われる。佐伯智広氏の説はどれも今一つ明確な根拠に欠けている。

 

2020年9月27日 (日)

然阿上人について

 僧については不案内で、且つ今日の夜まで史料編纂所のデータベースが利用できないが、とりあえず述べてみたい。必要があれば追加・修正する。
 注目したのは浄土宗の然阿上人が石見国三隅で生まれ、母が伴氏という点であった。この点についてはブロクの読者からの教示による。史料そのものは鰐淵寺との関係で井上寛司氏も注目され、承知していたが、その内容に注目していなかった。これまで伴氏は益田氏と同様、石見国在庁官人系と理解していたが、一方では参河国から入部したとする伴氏もおり、最近では石見国外からの入部説に傾きつつあった。南北朝中期まで赤穴庄地頭であった紀氏もその母が伴氏であった。
 然阿上人の父円尊は藤原師実の末裔で、比叡山での修行後、石見国に移住し、遁世後は法阿と号し、九三才で往生している。円尊の父堀河宰相頼定は、嘉応二年一二月三〇日に参議に補任され、治承五年三月一八日に五五才(補任による。分脈では五八才)で死亡している。頼定の父は藤原経実で、藤原師実の三男である。経実の異母兄が堀河天皇とともに政治を主導した関白師通である。頼定の父経実の兄弟で最も有名なのは、隆通か。ピンとこなければ、鹿子木庄領家=預所で国衙の乱妨が防げずに、高陽院内親王(美福門院の長女で高陽院泰子の養女となるが早世。実教出版が日本史教師向けに配布している冊子では庄園成立史の専門家?が泰子に比定しており、その無知蒙昧さに驚かされる。自分の足下のことしか知らないでは研究者はつとまらない)に寄進した願西である。一般的には晩年の子でありながら、待賢門院の甥であることで嫡子となった経宗が有名である。経宗は二条天皇派の中心となったが、二条の死後は後白河、平家との関係を構築し、生きのび、その子孫は大炊御門家を名乗る。
 話を戻すと、円尊の兄弟で生年が分かるのは公卿になった資頼(一一四八年)と頼房(一一七六年)であるが、子然阿が一一九九年の生まれからすると、円尊は両者の間に生まれか。頼房は治承五年に最愛子として頼定から摂津国倉殿庄と杭瀬庄を譲られている(尼崎市史研究114)。円尊が三隅に移ったのは寺院間の問題が主であろうが、一方で、建久三年七月一二日に石見守に補任された藤原経成は円尊の従兄弟基定の子である。前述のように経成が嘉禄二年正月に土佐守に補任された際は九条教実が知行国主であり、建久三年時は教実の祖父良経が石見国主であった可能性が大きい。経成の父成定は兼実の娘任子(宜秋門院)の別当を務めていた。
 然阿の母の実家伴氏で三隅の近くに所領を持っていたのは河上氏である。河上氏は江川沿いの河上郷、都治郷とともに那賀郡久佐・長屋・佐野を支配していた。伴姓の都野氏(那賀郡)、出羽氏(邑智郡)、波祢氏(安濃郡)も同族であった可能性が高い。伴氏が那賀郡から安濃郡まで所領を支配していたことから、益田氏とならぶ有力在庁官人であったとの説も可能である。河上・都治氏は系図では南北朝期に信濃国から入部したとするが、これは動乱の中で河上氏が置かれた厳しい状況が反映されていよう。反幕府方から降伏して幕府方に転じたが、石見守護に高師泰を起用して反幕府方を鎮圧する作戦は最後の三隅城を落とす前に反幕府方と足利直冬方が結び付いて、師泰方は石見国から敗走し、河上城は反幕府方の攻撃を受けて落城した。河上氏はその過程で反幕府方の中心であった福屋氏によって那賀郡久佐等を奪われてしまった。反幕府方であった国人の多くは一旦降伏しても、起き上がり小坊師のように、すぐに反幕府の活動に戻ったが、河上氏は幕府方に転じたままであったことが結果として裏目に出た。
 然阿上人と伴氏女子の結婚も伴氏が国御家人であっても可能だが、国御家人なら益田氏の関係者もおり、その意味でも鎌倉初期に恩賞を得て石見国に入部したと考えた方か良いのではないか。久しぶりに石見国に関係した記事となった。

2020年9月24日 (木)

建久二年在庁官人等解

 建久元年の大社遷宮の翌年に二通の在庁官人等解が提出されている。ただし、それに対してどのような回答がなされたかは史料が残っておらず不明で、二通に書かれたことが事実かを含めて検討する必要がある。また、解は在庁官人等ではなく国造が作成したものであろうが、在庁官人の多数が署判を加えていることは確かである。最初に杵築大社司をめぐる国造孝房と内蔵資忠の相論について孝房を支持する解Aが出され、次いで国造兼忠以前の文書が焼失したことに伴う紛失状=解Bが出されている。
 解Aに関する支証として現在の造営旧記(治暦から久安までを記す)が作成されたことはすでに述べた通りであるが、直近の建久の造営に関しては、文治六年に造営の完了を受けて覆勘宣旨が出されたこと以外はカットされている。造営が対立者である資忠により担われたためである。建久元年への改元は四月一一日であるため、それ以前に宣旨が出されたことになる。それを含めてAに記された内容は、国造側に都合のいいもので、検討なしには使用できない。
 はっきりしているのは、内蔵忠光が中心となって崇德院に大社領が寄進・立券されたことと、崇德院の失脚を受けて国造兼忠が後白河天皇に訴えたことである。崇德院との関係から忠光を召喚するため、検非違使兼重(成)が出雲国に下向してきたが、忠光が神殿下の積んであった萱に放火して神殿の焼失を図ったとする。実際には神殿の焼失は起こっていないことがポイントである。そしてこれまで意味を確認していなかったが、「朝章の重み」により、忠光が逮捕されることもなかったのである。崇德院庁分領であった大社領は当座の処置として国衙の管理に置かれたが、忠光の寄進・立券は「朝廷の法」に基づく正当な行為であったため、処罰されなかったことになる。となると、それに続いて記されている、忠光の子孫を永く停止するとの宣下が出されたことは事実ではなかろう。実際に、忠光の子資忠は頼朝の支持を受け、領家藤原光隆から神主に補任されており、それは圧力で拒否できなかったものではない。
 解Aが出されたが、支証が不十分とされ、それに対応するために出されたのが久安五年一一月二八日夜に兼忠宅が焼失して、それ以前の文書も失われたとする解B=紛失状であった。一三通の国造庁宣の写しが提出されたと思われるが、長保四年(一〇〇二)五月一五日に出雲孝忠を国造に任じたとの国司からの報告を受け、これを承認する太政官符が六月二八日に出されている。これに対して紛失状では正暦四年(九九三)一一月に吉忠が庁宣で国造に補任されている。この後、吉忠が死亡し、後任に孝忠が補任された可能性があるが、なぜか孝忠を補任した庁宣は提出されていない。国造家の系図でも吉忠は正暦四年から四八年間国造に在職したとしている。吉忠の後任の国明は紛失状では長暦二年に補任されているが、系図では同四年から八年間在職したことになっている。要は解状作成時に過去の記録が写を含めてきちんと残っていなかったため、提出された過去の庁宣の内容が違ってしまったのだろう。この背景には兼忠と国造孝房の父宗孝の関係が影響している。兼忠は天承元年から三八年間国造に在任し、次いで兼経が九年間在任した後に安元二年に孝宗が国造に補任され、一〇年後に孝房が補任されている。そして孝房は解Aの中で兼忠を「伯父」と呼んでいる。松江市史では宗孝を兼忠の弟とするが、建久五年の解では宗孝は元出雲氏である上に兼忠の嫡子として国造職に補任されたとしている。兼忠の前任者父兼宗も三三年間在任している。兼宗の父頼兼は二八年間在職している。一方、宗孝の子孝房は二〇年間在任している。国造の場合は前任者が死亡して初めて次代に交替する。
 現在の天皇の場合は、父上皇が三一年間在任したため、天皇に即位した時点で五九才であり、上皇は父昭和天皇が六四年在位したため五六才での即位であった。天皇は幼少でも即位できるが、国造は前任者が死亡し、本人が成人(一五~二〇才程度ヵ)に達していないと後継できない。兼忠は国造となった時点で三〇才を超えていた可能性が高く、死亡時には七〇才以上であった可能性が高い。康治元年一一月の仮殿遷宮時に兼忠の弟兼成と子顕兼がみえるが、いずれも名前には「兼」が付いている。宗孝が兼忠の弟である可能性は低い。兼忠の死により国造となった兼宗の兄宗房の子兼経もまた「兼」を付けている、その意味で宗孝は兼忠の弟ではなく、その娘の夫ではなかったか。そのため、宗孝以降、国造は代々名前に「孝」を付けている。宗孝は出西郷を開発した出雲氏の一族で、その経済力を背景に先ず領家から神主に補任され、次いで、国造兼経の死とその子石王冠者が幼少であったため、国造となった。それを正当化するために、安元元年の国司庁宣と建久五年の在庁官人等解状を偽作し、国造兼神主であった宗孝が国造を一時的に兼経に預けるという国造職の相続上ありえない事を記したものである。
 話を戻すと、久安五年一一月二八日の火災で史料を焼失したことにしたのは、それまでに内蔵忠光により崇德院庁分領杵築大社領が成立していたため、この時点で資料を失ったことにしたものであろう。この記事は忠光が「朝章の重み」により処罰されなかったことの意味にようやく気付いたため書いたものである。

2020年9月22日 (火)

藤原長実の娘

 白河院の近臣長実の娘といえば晩年の子で鳥羽院の寵愛を受けた得子が有名であるが、系図に記録の無い室や娘がかなりいたようである。ここでとりあげるのは『長秋記』長承三年八月一四日条に登場する姉故左金吾妻である。故長実の後家越後尼が訪問してきた源師時に語ったことが記されている。長実鍾愛の女子(何度もいうが、後家尼の子であることは物理的に不可能)が鳥羽院の寵愛を受けていることは家門の面目を施したが、得子の兄弟骨肉は皆勘当同然として、兄長輔が近習を停止され、長親、時通雅国務を停止されたことを歎いている。それに続いて「姉故左金吾妻」も家・土地・庄園・資財・雑具を併せて収公され、故顕盛朝臣の蔵も顕頼卿によって摘発され納めたにもかかわらず、用物を召し取られ、其の外男女眷属の所領も召し上げられたとする。長実とは無関係な顕頼卿もまた被害者であるとの角田文衞氏の解釈が誤りであることは繰り返し述べてきた。この背景には待賢門院の訴えがあるとする角田氏の説には五味文彦氏まで賛成しているが、これまた誤りで、外戚である閑院流との関係の反省に基づく、鳥羽院の意向である。国務の停止は、顕盛が解任された修理大夫に復帰したのと同様、間もなく解除されたが、顕盛の場合はすぐに藤原基隆によって修理大夫の座を奪われ、公卿になることなく没した。その背景については前述の通りなのでここでは省略する。
 問題は長実の娘が故左衛門督(左金吾)の妻となっていることである。長実の娘の夫で左衛門督になりながら在任中に死亡した人物なので、『公卿補任』をみれば比定は可能である。左衛門督は権中納言クラスが兼任している。長承三年八月時点の左衛門督は源雅定であるが、健在である。順に遡っていくと、藤原実行(建在)、藤原通季(権中納言、大治三年没、三九才)、藤原能実(大納言、長承元年没、六三才)となり、西園寺(当時は藤原)通季である。通季は待賢門院の同母兄で、母光子は堀河・鳥羽両天皇の乳母であった。この通季が死亡した二年後に長実はその子公通(母は藤原忠教の娘)を聟に取っている。このことを根拠に五味氏は通季の知行国丹波が長実の知行国となったとされたが、二年のズレは問題である。
 今日たまたまネットで検索していて宮本晋平「鎌倉期公家知行国の国務運営」(史林87の5、2004)を読んだが、知行国制は宮本氏が説く鎌倉期以前から同様の状況にあったのではないか。宮本氏は国司庁宣と国宣に袖判を加えている人物を知行国主とする通説に対して、その中には位階が五位にすぎない人物もいて、国主ではなく国務奉行だとの説を提示している。名称はともかく、袖判者=国主ではないというのは正しく、宮本氏が指摘した事例は貞応二年以降のものであるが、院政期にまで遡るのではないか。それこそが知行国制のファジーな性格を示している。堀河天皇没後の白河院政期では本院(白河)と新院(鳥羽)の分国のみ、公卿補任の受領の経歴に記載され、知行国や女院分国は記載がない。それゆえに、知行国主と女院分国については意見の相違がみられる。女院分国は本院・新院分国と知行国の中間的存在であろうか。
 話を戻すと、通季の妻の一人であった長実の娘の土地・建物・資財も没収されている事は、それが長実から譲られたものだとしても、通季の同母妹である待賢門院の意向ではなく、鳥羽院の意向であることを如実に物語っている。院分国と知行国が重なっているようにみえる事例は院政期にもみられ、通季没後の丹波国は御願寺造営を行っていた待賢門院の分国となり、そのもとで長実が、知行国主とよぶかは微妙であるが、国務の執行者となっていた。長実も待賢門院璋子が永久五年一一月二六日に鳥羽天皇の女御として入内した際には政所別当を務め、関係は深かった。父通季、そして聟入りした長実が死亡しても丹波守公通の地位に変更がなかったのはそのためである。

2020年9月21日 (月)

承久の乱後の大社領家

 舌の根も乾かないとはこのことであるが、前回の記事(掲載は続ける)を大幅に訂正する。サスペンスでも「僕としたことが見落としをしていたかもしれない」との定番の台詞があるが、藤原家隆の花押は大社関係以外には存在しない。また「かすさのかうの殿」の呼び名から上総介経験者である家隆に比定されたが、公卿補任の家隆の記事には写本間の違いもあって注意が必要である。すなわち家隆は建久九年正月三〇日に父光隆(前治部卿)給で「遷上総介」とあるが、頼朝の意見書を受けて行われた文治元年一二月の除目で補任された越中守(光隆が国主)は建久元年正月には藤原資家が国守に補任されており、「遷」は誤りである。兼務していた侍従も建久四年正月の除目で正五位下に叙せられる替わりに辞任している。正治三年正月に皇后宮当年御給で従四位下に叙せられているが、皇后宮とは後の坊門院範子である。範子は家隆の父光隆邸で育てられ、兄雅隆が皇后宮権大夫であった。
 建仁元年一二月二二日復任(父)とあるのは八月に光隆が死亡したことにより服していた喪が明けたためである。次いで建仁三年四月二五日に得替とあるが、この部分は写本によっては欠落しているようである。これにより上総介を得替したことがわかるが、『国司一覧』では建永元(元久三)年正月一三日に「止任」という架空の記述をしている。この日の除目で宮内卿に補任され「元前上総介」とあるのを誤読したものである。すでに「前上総介」であった家隆が宮内卿に補任されたという記述である。前年の元久二年正月に従四位上に叙せられたのも皇后宮範子当年御給であった。元久二年三月二六日に古今集四〇〇周年に合わせて後鳥羽院に撰上された新古今和歌集の仮名序にも「前上総介藤原朝臣家隆」とある。次いで建保四年正月に「臨時」で従三位に叙せられ公卿となり、承久二年三月には宮内卿を辞することで正三位に叙せられた。以上により、宮内卿補任以降の家隆が「上総介」と呼ばれる事はほとんど無くなったと思われる。
 寛喜元年六月八日には家隆の妻が所労により亡くなっている。新古今の編者であった定家の日記『明月記』五月二六日条には家隆の妻が重病(死が近い)と聞き、二四日に続いて今朝も見舞ったが回復の望みが無いと記されていた。これが雅隆の娘であり、重隆の姉妹であろう。寛喜元年七月の花押がやや乱れていたのはこの影響であろうか。家隆の母については藤原実兼の娘との説(公卿補任)と雅隆と同じ藤原信通の娘との説(尊卑分脈)があるが、同母兄の娘との結婚は考えにくく、且つ補任の方が分脈より信頼性は高い(ただし、誤りが無いわけではなく、個々について検討する必要がある)ので、実兼の娘であろう。実兼については『本朝世紀』天養元年四月二九日条に大皇太后令子内親王の埋葬に刑部卿実兼が派遣されたとの記事があることを述べたが、『重憲記』同日条には、「本宮亮刑部卿実兼朝臣」と記されており、家隆の母が「故大皇太后宮亮実兼女」とする補任の記事と一致している。
 話を戻すと、雅隆の跡を継承して大社領家となったのは異母弟家隆ではなく子重隆であった。井上氏は発給文書の形式から三位以上に絞り家隆とされたが、『日本史大事典』の「下文」の項目で古文書学に精通した富田正弘氏が四・五位は奥上判、袖判は四位以上と述べている。ただし、前述のように小槻淳方は正五位でありながら、預所下文に袖判を加えていた。重隆は承元元年四月一〇日に上総介に補任されており、これ以前に叙爵していた。上総介は三年在任し、承元四年六月一七日に承久の乱の首謀者の一人藤原秀康に交替している。重隆の花押は建暦二年二月 日後鳥羽院庁下文の署判者「前上総介藤原朝臣」の花押で確認できる。次いで建保五年正月に「新院(土御門院)給」で従五位上に叙せられている(『為政録』、大日本史料四の一四)。さらに天福元年一二月一五日に正月に補任された弾正少弼を辞する替わりに従四位下に叙せられている。
 嘉禄元年の時点で重隆は従四位下に叙せられていなかったことが分かったが、一方で建暦二年の重隆の花押と、貞応三年六月一一日の礼紙追而書の花押、嘉禄年間と寛喜元年の領家の花押は同一のものである。これに対して文暦二年の二通の花押は、雅隆の花押に似ている。重隆が従四位叙位を機に父雅隆に似せて自らの花押を変えたのではないか。この後、仁治三年に従四位上に叙せられたが、非参議公卿への昇進は難しかったと思われる。以上、昨日の記事を自ら覆す形になったが、こちらを結論とする。重隆の死後は松殿忠房の室となった娘が継承し、次いで孫である松殿兼嗣が領家となった。 

2020年9月20日 (日)

藤原光隆の子2

 大社関係文書にみえる領家の花押について再確認する。編纂所花押データベースは井上氏の研究成果を受けたものであるが、前述のように再検討が必要である。
 貞応三年六月一一日領家袖判御教書には「礼紙追而書」が附属し、その袖にも花押がおされている。データベースでは両方とも雅隆の花押としているが、あきらかに追而書は別人の花押である。この年に雅隆が死亡しているが、月日は不明である。結論を言えば、追而書の花押は雅隆の跡を継承した異母弟家隆(子重隆が正しい)のものである。六月一一日の文書を作成して間もなく雅隆が亡くなり、弟家隆(子重隆)が領家を継承したのだろう。領家の文書の基本形は、袖判下文と袖判御教書である。後者は「執達如件」と結ばれ奏者名とともに「奉」と記され、月日のみで年は記されていない。光隆と雅隆父子の文書は公卿として出している。問題は寛喜元年七月 日の袖判である。やや形が崩れており、文書そのものが写である可能性もあるが、家隆(重隆)の花押であろう。次いで、文暦二年の二通のあるが、閏六月八日付の文書は袖判御教書と同形式である。これに対して九月日のものは預所下文に袖判を加えた形で、年が記されている。
 袖判を加えるのは三位のみではなく四位を含むことは『日本史大事典』(平凡社)に記されているが、三位以上の奉書(奏者あり)は特に御教書と呼んでいる。これに対して預所下文に袖判が加えられた文書は建長二年と四年に小槻淳方の袖判を加えたものが残されている(鎌七二一七、七四四三。常陸吉田神社文書)。淳方は正五位下大史夫であり公卿ではない。最近読んだ大島創「最勝光院領備中国新見庄領家職相論の再検討」(『中世荘園の環境・構造と地域社会』)の中で新見庄領家職の保持者としてみえ、偶然の一致に驚いた。文暦二年の二通の花押は同一人物のものであるが、家隆とは明らかに異なり、雅隆に似ている。雅隆の嫡子重隆は寛元三年九月八日に死亡しているが、従四位上であり公卿にはなっていなかった。そのため、領家袖判下文ではなく、預所が日下別行に署判する下文に領家が署判を加える形にしたのだろう。
 重隆の死後はその妻→娘(松殿忠房妻)→孫(松殿忠房子)兼嗣と継承されたのであろう。

 

藤原光隆の子

 藤原光隆の嫡子で、杵築大社領家となった雅隆(一一四七年生)の母は藤原信通の娘である。信通は白河院近臣である宗通と同じく近臣である藤原顕季の娘との間に生まれた。信通の一才年上の同母姉が忠通の正室宗子で、崇德天皇の中宮聖子の母である。信通の同母弟が伊通、季通、成通、重通であるが、信通は保安元年(一一二〇)七月に死亡した父宗通の後を追うように一〇月に三〇才で死亡した。従三位参議であった。これにより雅隆の母は保安二年以前の生まれとなる。父光隆は大治二年(一一二七)の生まれであるから、母の方が六才以上年上であった。信通の二人の男子は基隆の娘との間に生まれており、雅隆の母もその同母姉妹であった可能性が高い。父信通の早世前後に生まれた可能性の大きい娘は母方の祖父基隆の庇護下に入ったのではないか。信通の六才下の同母弟成通も基隆の娘を妻としている。雅隆の母方の祖父基隆は天承二年(一一三二)に死亡しており、光隆との間に雅隆を生んだ時点では基隆の嫡子忠隆(一一〇二年生)の庇護下にあったであろう。忠隆の正室は藤原顕隆の娘栄子で、崇德天皇の乳母であった。光隆は美福門院とその子近衛天皇との関係が深いとされるが、本来は父清隆と同様、待賢門院流(白河-待賢門院-崇德)との関係が深かった。
 では光隆の子で雅隆の跡を継承して大社領家となった家隆(一一五八年生)はどうであろうか。家隆は新古今和歌集の撰者としても知られているが、その母は閑院流実兼と藤原永業の娘との間に生まれている。実兼は待賢門院の異母兄であり、系図では大治五年(一一三〇)に死亡したとされるが、一方では天養元年四月二九日に刑部卿実兼朝臣がみえる(『本朝世紀』)。系図によると家隆の母もまた父実兼の死の前後の生まれとなるが、誤りであろう。ただし、家隆誕生時に実兼が生存していたかどうかは不明である。実兼の子成兼は従兄弟である三条公教の養子となり、德大寺実能が知行国主であった丹波国の国守(久安五~久寿二)となっている。家隆を生んだ女性と成兼は実兼の晩年の子であった可能性が高い。永業は高階成順の子から藤原南家永業の養子となり受領を務めていたが、その娘は藤原公実や藤原師実の室となっている。師実の子忠教の母もまた永業の娘である。ここからも光隆と待賢門院流との関係がうかがわれる。
 以上、光隆の子雅隆と家隆についてみたが、父清隆が三条公教、藤原長輔(長実の子)、藤原経宗(母は待賢門院同母姉、二条天皇母懿子の同母弟)、平範家(実親の子)、藤原重方(顕隆の孫)、藤原忠基(忠教の子)との婚姻関係により人脈を拡大したのに対して、光隆は藤原実教(家成の子)と平親国(その父親宗は時子、時忠の異母兄弟、親宗の母は基隆の娘)と婚姻関係を結んだ程度である。この差が光隆の子雅隆・家隆こそ、非参議公卿となったが、その孫の世代は公卿にならなかった原因であろう。

2020年9月19日 (土)

平盛子の母

 樋口健太郎氏『中世摂関家の権力』(2011)を読んでいるが、興味深い内容が多い。それまでの通説が『平家物語』『古事談』等の二次的史料に依存しすぎていたことも感じる。二次史料だから悪いのではなく、個々の内容を一次史料で検討して使う必要がある。系図についても個々について妥当性を判断しなければならない。『中世王権の形成と摂関家』(2018)も併せて購入し、全体を眺めた範囲では系図の利用については、従来の研究と同じく、一部の例外はあるが男系中心で、女系の情報の活用は十分ではなさそうである。
 平盛子は清盛の娘で、樋口氏2011でも第四章で論じられている。全体としては良い論文であるが、盛子の母が時子であった可能性が高いとするのはいただけない。それなら記載がない訳がない。実際に清盛と時子の子としては、宗盛(1147生)、知盛(1152生)、徳子(1155生)、重衡(1157生)がおり、盛子(1156生)を徳子と重衡の間に入れるのは無理である。三人が誕生した月日は不明であるが、盛子を時子以外の女性が産んだことは疑う余地がない。樋口氏は『玉葉』に「盛子が建春門院といささか由緒ある人で、その旧意を記憶していた」ため、建春門院の仏事に際して捧物を多く調進したかと記されていることを根拠としている。問題は由緒である。建春門院滋子(1142生)は平時信とその正室祐子との間に生まれている。祐子は藤原顕隆の嫡子顕頼と藤原俊忠の娘との間に生まれている。時子(1126生)・時忠(1130生)の同母妹が顕隆の異母弟親隆との間に生んだ親雅の生年(1145)を考えると、同母妹は時忠の姉と思われ、三人の母は時忠を生んでそう遠くない時期に亡くなった可能性が高い。これに対して祐子の長子と思われる建春門院女房冷泉局は一一四〇年頃の生まれで、祐子は一一二〇年頃の生まれとなり、顕頼の嫡子光頼(1124生)の同母姉となる。
 承安三年六月に時子が八条持仏堂の供養を行った際に、藤原重方・重頼父子が参集したのは時信の正室祐子が重方の従姉妹(祐子の父顕頼と重方の父顕能は同母兄弟)であったことはすでに述べた通りであるが、この事実を述べた『吉記』の記主吉田経房は周囲の人にも聞いたが「由緒が不明」と記していた。盛子の母も藤原顕隆と忠俊の関係者ではなかったか。盛子の夫藤原基実の最初の室は顕頼の娘と藤原忠隆との間に生まれ、信頼の同母妹であった。基実が忠隆の娘を正室としたのに対して、基実の一才下の異母弟基房が三条公教の娘を正室としたのは忠通が基房を重視していたからとの樋口氏の説があるが、どうであろうか。ポイントとしては、基実の結婚は平治の乱の前であり、基房の結婚は長子隆忠の生年(1163)からして乱後で、公教の死(1160)後である。基実と忠隆娘との結婚の時点で、同母兄信頼は二七才で正三位権中納言兼右衛門督であるのに対して、公教の子で最も高位にあった実国は二〇才で正四位下、嫡子実房(母は藤原清隆の娘)も一三才で正四位下であった。基実と忠隆娘の結婚を元木泰彦氏のように、忠通が信頼に屈服したと評価できるかは問題だが、その時点では信頼の方が公教の子達より出世する可能性は高かった。
 樋口氏前掲書により盛子は夫基実の死の翌年に准三后とされたが、その際に、「専子」「盛子」の二案から選ばれて盛子となったことを知った。その前の名前が分かれば、その母を知るヒントにはなるだろうが、時子の同母妹とする樋口氏の説は成り立たない。

2020年9月17日 (木)

九月中旬の近況3

 石井氏からは義江氏の論文はとにかく長くて、受験参考書のように線を引かないと読めないとのコメントがあった。三年時の途中で服部氏は文化庁に移られ、研究室の送別会が現在の山上会館の前身となる会場で開かれ、当時国史学科の学友会委員であった当方が会場の予約などを行ったが、なにせ世間の事情に疎いため、学生の身からすると食事は大変豪華なものとなった記憶がある。服部氏は、「自分は義江・五味氏のように秀才ではないから」というのが口癖であった。五味氏については当時お茶の水女子大に勤務され、史料編纂所の一室を利用して『吾妻鏡』の輪読会をされており、当方も参加していた。ドイツからの留学生、岡山大から内地留学でこられていた中野栄夫氏、長野県から編纂所に派遣されていた竜野氏とともに、お茶の水女子大の学生三人の姿もあったが、そのうちの一人は吉川弘文館をへて朝日新聞社で日本史関係の出版を担当し、もう一人はいつのまにか服部氏のつれあいとなっていた。
 義江氏の地頭職成立史の研究は、名前からわかるように地頭の成立を動的に把握するものであった。また理論的で研究対象も広く、その持ち味が出たのが『神仏習合』(岩波新書、一九九六年)であろうか。黒田俊雄氏の権門体制論を批判的に検討した文章を『歴史評論』で読んだ記憶もある。山川から出た『日本通史』の第一巻「歴史の曙から伝統社会の成熟へ」は一九八六年の出版である。『鎌倉幕府守護成立史の研究』(二〇〇九)は県立図書館で借りて読んだが、再度手にとってみたい。所蔵されていない伊藤邦彦氏の著書(各国守護沿革編)は購入したが、地元の書店経由だと時間がかかった記憶がある。その後はネットで購入することが多くなった。
 脈絡なく述べているが、本日は樋口健太郎氏の論文集二冊が届く予定である。院政期の摂関家に関する研究を飛躍的に高めたものである。最初の論文集は校倉書房から二〇一一年に出版されたが、書房が二〇一八年六月で廃業したことにより、新刊・古本ともに検索しても購入可能なサイトがヒットしない。ということでその在庫を引き継いだ歴史科学協議会から購入することとした。在庫少量で箱が欠品とのことで、想定より安く購入できた。本日届いた後に払い込み表で送料を加えた金額を払うのだが。二〇一八年刊の吉川弘文館の論文集は新刊でのみ購入可能であった。鳥取県立図書館でみて、一部の表を複写したことはあったが、やはりきちんと読む必要性がある論文集だと判断したからである。前者については、中国地方の公立図書館では岡山県立図書館のみ所蔵のようである。島根県立図書館をとおして借りることは可能だが、二冊とも購入することにした。両方ともスキャナーでデジタル化した上で利用することになる。一応、液晶モニターは目に優しい機種を選んでいる。
 昨日の囲碁名人戦第二局は両対局者が秒読みに追われる中で、それぞれに失着があったようだが、最後に間違えた虎丸三冠の逆転負けとなった。井山三冠も最近負けが続いたのでホットしたと述べていた。九月四日の王座戦準決勝と九月七日の応氏坏での敗北、さらには第一局で勝利した一週間前の八月一八日の団体戦である農心杯での敗北を指していよう。韓国の朴廷桓九段には以前はそうでもなかったが、近年の国際戦ではことごとく苦杯をなめさせられている。勝負よりも内容にこだわった結果でもあろうが、日本棋士の国際戦での課題としては相手より遙かに早く秒読みになることである。応氏杯の一力八段の準々決勝戦も当初は消費時間が多かったが、途中で優勢になると相手の消費時間がみるみる増えていった。国際戦は長くても三時間であり、それに対応しなければ活路は見いだせない。

九月中旬の近況2

 いまさらであるが、義江彰夫氏が二〇一八年二月に死亡されていた事を知った。満七四才であった。氏に出逢ったのは大学二年時で、一年時には自主ゼミ「中世的世界の形成」に参加していた。一九七五年度は正規のゼミとして開講されていたが、翌年は自主ゼミとして本郷から石井進教授を招いて行われた。LⅢ5Bの一年先輩であった山中(現山室)恭子氏からオリエンテーションで勧誘を受け参加した。当初は三人であったが、一年間継続したのは当方のみであった。
 当時は石母田氏の著作ではなく、それを批判的に継承した戸田芳美、河音能平氏の論文について議論していた。当方は石母田氏の論文を読み始めたばかりで、先輩の報告を聞いていた。二年生は山中氏のように国史を目指す人のみならず、西洋史、哲学、さらには法学部を目指す人もいた。顔はいまでも覚えているが名前が出ない人もいる。外部からの参加もあった。石井氏以上の年齢と思われた「おじさん」であるが、マルクス主義や共同体論の立場から議論に参加していた。網野善彦氏『蒙古襲来』についても議論になった。その中で苦し紛れに、非農業民との戦闘により、動物の死に関わる仕事をする人々への差別が強まるという主旨の発言をしたことは覚えている。山中氏は網野氏の熱烈なファンであった。氏は卒論で戦国大名今川氏を論じ、その題名である「中世の中に生まれた近世」は、氏の著書の題名にもなった。コンピュータでデータベースを作成して論じていた。当時のコンピュータはパンチカードを利用するものであったと思うが、手書きのカードも併用していた。同級生の多くがコンピュータの講座を受講していたが、当方は高校時は理系で数学科を志望したこともあって外部講師(東京工大)による「微分方程式」の講座を受講していた。大変難しい世界であったとの印象がある。山中氏は現在では江戸幕府の経済政策などを論じているが、中世前期についても精通していた。
 大学二年時には石井氏が招かれてドイツへ行かれたため自主ゼミはなくなったが、氏から呼び出されて喫茶店で会った際に、今度、北海道大学から義江彰夫氏が来られるので、中世史を学ぶ機会としてほしいと言われた。その際に旧姓から「君は鳥取の出身か」と聞かれたことも思い出される。鳥取出身で大正デモクラシー研究者で名高い人がいたことからである。三年時に国史学科へ進学し、石井氏も戻られたが、大学の創立一〇〇周年をめぐる問題が発生していた。当方は全く知らなかったが、二年時には百年史の編纂委員長である笠原一男氏の講座に学生がやって来て、どのように百年史を編纂するのか問い質すことがあり、笠原氏の講座は休講となり、退官前の記念授業もなされなかったそうだ。今調べると、一九七七年退官とあり、佐藤進一氏と同年齢であった。笠原氏は一向一揆の研究で知られ、大学受験の日本史の問題にもそれに関連した出題がしばしばあった。ただし、西洋史の木村尚三郎氏と同様、後半は研究論文の執筆はほとんどなくなった。何かの用事で国史学科助手であった服部英雄氏が笠原宅に届けもののため行ったところ、本人不在でつれあいが対応され、若い時にしっかり実績をあげることが大切だと言われたとか。当時の笠原氏はビルも所有していたようである。
 ともあれ二年時は正式なゼミである義江氏の「武士成立の諸問題」を受講した。『保元物語』を読みながらの講義であったが、北大時代の話もあった。記憶しているのは、大学構内を口笛を吹いて歩いていたところ、学生と間違えられて、当時行われていた大学自治会役員選挙に投票するよう言われたそうだ。当時の文系の教官は授業日以外は自宅などで研究をしていた人が多かったが、氏は毎日大学に来ているとも言っていた。三年時に義江氏の大著『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』が刊行され、国史学研究室を通じて二割引で購入したが、価格を下げるため韓国で印刷したことを聞いた。
補足:確認するとブログを開設した直後の「網野史学2」(2008年11月)の中で義江彰夫氏について言及していた。

 

2020年9月15日 (火)

義親の乱の補足

 乱の再検討を行ったが、それに対する疑問もあるかもしれないので補足する。
 義親が配流先の隠岐に渡らなかったかのように記す『百錬抄』の記事であるが、不正確なことは、義親が去年(鎮圧された前年)に隠岐国に配流されたが、出雲国に留まったとする点からもあきらかであろう。『古事談』にも配所に赴かず出雲国を経廻して悪事を発し、目代を殺害したと記す。その元となった資料が問題だが、『中右記』嘉承二年六月二〇日条に、「流人義親事」がその日の議題の一つとしてあったことを記すが、具体的な事は何も記されていない。考えられることは、配流先の隠岐を抜け出して出雲国に渡ったことか、その配流処分の解除ぐらいである。『大山寺縁起』には隠岐島を打ちなびかして出雲国に渡ったとあるが、隠岐国や出雲国でそのような事実があれば『中右記』や『殿暦』に記事が残り、もっと早く対応したはずである。
 『中右記』の記事から半年後の『殿暦』十二月一九日条に、因幡守平正盛が追討のため出雲国に下向したことが記されるが、その原因としては出雲目代を殺害したことのみ記される。そして嘉承三年正月六日に出雲国に到着した正盛はその日の内に義親と類従五人(出雲国からの解では十二人)を殺害した。これだけである。義親に同意する輩がいるとの聞こえがあるとするのは、正盛の勧賞に関する議論の中で、前例に準ずべきだとする意見が大勢な中で、「但し」として民部卿(『松江市史』には人物比定がされていないが、白河院に意見を直言したことで知られる源俊明である)が付け加えたものである。『中右記』二三日条には「配所を棄て出雲国に越え渡り目代(と郎従七人)を殺害し、調庸を推し取った」とのみある。ここからも義親軍と国衙軍が衝突したのではなく、義親が目代を急襲したテロであったことがわかる。
 関連して、『松江市史』編纂時は日記に関する認識が十分ではなかったが、『中右記』の活字本として「増補史料大成本」とともに、未完結であるが「大日本古記録本」ならびに、これに依拠した『大日本史料』の当該記事がある。『鳥取県史』では「収録は可能な限り原本・原本写真・拓本・影写本に拠ったが、原本調査が困難なものについては、近世以降の複製資料や活字資料をもとに採録した」とある。島根県史ならば同様の方針で編纂されたであろう。今思えば、最新の活字版があるものはそれを利用すべきであった。前述のように、伯耆守から尾張守に遷任した高階為遠(その子家行は待賢門院判官代で、女院分国の出雲と安芸の国守となった源光隆を補佐。女院の死後は摂関家家司として活動)がまごうかたなき白河院近臣であったにもかかわらず、近臣ではないとされた(「不候院人」は「又候院人」の誤り。佐伯氏のみならず松江市史通史編にも近臣ではなかったと記す)。また大成本にはみえないが古記録本には大社への奉幣記事が収録されていた。この記事は『大社町史』にも未収録である。このような点は『中右記』以外についても当てはまり、補遺編作成の際に、『親元日記』活字本未収録で未知の宍道氏関係史料(宮内庁書陵部本)に出逢って驚ろかされた。当方は宍道氏関係史料は『宍道町史』に依拠しており、自分で探したことはなかったが、たまたま遭遇した。網羅的、且つ基礎的作業は古代出雲歴史博物館に期待するしかないが、中世後期を専門とする人のみである。

2020年9月12日 (土)

九月中旬の近況

 政治の動きは、コロナの感染とともに様子見の状態か。はっきりしているのは本当の意味で見識と実行力のある指導者が登場しないと日本は本当に沈没してしまうことである。現在の首相最有力の候補はこれまでのように根拠も示さずに「あたらない」「問題ない」(これはネットで批判する輩と同じ)では済ませられないため、今後たくさんボロが出そうな様子。高齢なこともあろうが、これが本当の能力であろう。北朝鮮の秘密諜報機関のトップなら務められるかもしれないが‥‥。それがゆえに首相が国会にはそんなに出なくてもよいとの主張をしている。これまでのように致命的なミスを帳消しにする悪が背後にいるわけでもない。すべては権力を独占していたから可能であっただけ。
 囲碁の世界戦はコロナ禍のため、途中でストップしており、今後の日程の調整が大変。これまではリモート対局だったが、今後は対面となろう。唯一どの棋戦でも勝ち残っていた柯潔九段が応氏坏の準々決勝で謝科八段に敗れた。謝科八段は二〇才で四月の夢百合坏でも準々決勝で一力八段を破ってベスト四に進出。準決勝以降の日程は未定。残りの三人は芈昱廷九段(今回、コウの取り間違いで一力八段に逆転負け)、柯潔九段、許嘉陽八段と中国勢が独占。六月のLG.杯はベスト八で止まっているが、楊鼎新九段、柯 潔九段以外は韓国勢が六人と多数を占めている。日本の五棋士はすべて一回戦で敗退。七月の春蘭杯は日本棋士五人が出場したが、一回戦では組み合わせに恵まれた感の強い関西棋院の村川・余の二人が勝利。井山・芝野・本木は敗退した。一力八段は碁聖戦挑戦手合のため不参加。ベスト四は柯潔九段・唐韋星九段・連笑九段・范廷鈺九段と中国勢が独占。
 今回の応氏坏は台湾の経済人応昌期(故人)の基金会主催で、主催者がメンバーを招待して四年に一度開催される。優勝賞金も他が二千万円前後であるのに対して倍の約四千万円。日本国内の棋戦では棋聖戦の優勝賞金は四千五百万円。名人戦三千万円、本因坊戦二千八百万円と、七番勝負の棋戦が高額である。五番勝負の棋戦では王座戦、天元戦は一千万を越えているが、碁聖戦と十段戦は下回っている。コミは日本と韓国主催の棋戦は六目半、中国主催の棋戦が七目半。応氏坏は八目で実質七目半と同じ。前回の優勝者と準優勝者がシードされたが初戦となった二回戦で敗退。優勝者唐韋星九段を破って準々決勝で一力段と対戦したのが陶欣然八段だった。碁の国際レーティングの一つ(九月九日現在)では陶欣然八段が19位、一力八段が17位。一位が韓国の申真諝九段、二位が敗退した柯潔九段である。謝科八段は16位、趙晨宇八段25位。ランキング上位の棋士はほとんど出場しているので、国際棋戦が戦国時代であることがわかる。残りの日本勢は井山九段が20位、虎丸九段が35位、許家元八段が50位、河野臨九段が70位で、村川九段は162位。村川九段を除けば、レーティングの上位五人である。中国十二人、韓国七人、台湾三人、ヨーロッパ一人の合計三〇人。台湾勢も今回は許皓鋐六段がベスト八に残った。日本勢も一九九三年の第二回、一九九六年の第三回大会で大竹九段、依田九段が準優勝したのみで、二一世紀に入ってからは不振で、前回は河野九段がなんとかベスト八に残っていた。
 今回のベスト四は一力九段が二三才で、他の三人は二〇才である。いずれも二〇才以下の棋戦であるグロービス杯で日本に来日し、一力八段は第一回の、申真諝九段は第四回の優勝者である。現在世界一位の申真諝九段は昨年のLG杯で優勝しているが、今年は準々決勝で柯潔九段に敗れている。そのこともあり、今回のベスト四と六月のLG杯のベスト八、七月の春蘭杯のベスト四は一人も一致しない。準決勝は三番勝負、決勝は五番勝負となる。日本の棋士のハンデは中国・韓国のトップ棋士との対戦が少ないことだが、最近はネット碁により、非公式ではあるが対局の機会は増えていると思われる。
 世界最大のネット碁のサイトが昨年末から今年の初めにかけて第1回野狐人気争覇戦を開催した。サイトでの上位三二人によるトーナメントで、30位であった井山九段が決勝に進出し、三番勝負の初戦に半目勝ちしたが、第二戦半目負け、第三戦三目半負けで、2018年のLG杯に続いて準優勝であった。優勝したのは中国の童夢成八段。サイトでの順位は不明だが、レーティングでは23位。国際戦では上位三〇人ほどに優勝のチャンスがあるというのが現実である。これに比べて切磋琢磨するライバルのいない将棋の藤井八段は本当に気の毒だ。若手棋士の台頭が急務である。
 井山九段は今年前半と比べてやや調子は下がっているようだ。一方、三月末に早稲田大学を卒業し、河北新報記者との兼務とはいえ、囲碁に専念する一力八段の状態は上向いているか。ただ、七冠時の井山九段が国内の挑戦手合いでほとんど負けなかったのと比べるとそのレベルには達していない。内容は知らないが最近の国内棋戦でも、強敵ではあるが高尾九段と虎丸九段に敗れている。一〇月八日開幕の天元戦五番勝負の井山・一力戦はここにきて互角の予想となった。なお昨日の第五回扇興杯女流最強戦の準決勝は上野三段と謝依旻六段が勝ち、前回優勝の藤沢里奈四段は敗退した。決勝戦の結果も予断を許さない。謝依旻六段は第三回を除き決勝に進出し優勝一回である。上野三段は初の決勝進出。優勝賞金は八百万円と、七大タイトルで六番目の碁聖戦と同額である。
 最近は所蔵する史料集と論文集のPDF化を行っている。完了したものは廃棄して何の問題もないが、鎌倉遺文四六冊(近刊の四冊は含まれない)や南北朝遺文(中四国六冊、九州二冊)は希望者があれば譲渡してもよいとも思う。とはいえ、後々のことを考えると個人ではなく、公共図書館が望ましいか。山口県史中世史料四冊はPDF化は完了していないが、これも完了後は不要になる。コンピュータの画面でみたほうが効率的である。公共図書館では益田、浜田あたりがよいとも思うが、益田は南北朝遺文は中四国、九州ともに所蔵している。

2020年9月10日 (木)

千家家譜の記述から

 従来、大社本殿の高さとの関係で「北島家譜」を見る機会が多かったが。「千家家譜」と「北島家譜」で扱いが違う点について述べる。編纂所謄写本「千家家譜2」による。
 大化の改新で知られる孝徳天皇の代以降、出雲氏が国造を代々世襲してきたが、国造孝房の時期に弟石王冠者が国造の地位を望み、兄弟の対立が発生したが、冠者は杵築を追われ、須佐国造の家を相続したと記す。石王冠者は国造兼経の子で孝房の兄弟ではないことは、安元二年一〇月 日出雲国司庁宣と建久五年三月ヵとされる出雲国在庁官人等解によりわかる。両方とも偽文書であるが、北島家譜はこの二通の文書に即した内容の記述で、関係系図を記している。千家家譜の記載は後に生まれたものであろうが、両方とも共通して七月一七日前信濃守佐々木泰清書状を根拠に挙げている。文治二年のものとしているが文永年間のものである。
 続いて孝綱が子政孝に神主并惣検校を譲り、政孝の孫泰孝の時に、内蔵資忠の玄孫実政との間に神主・惣検校をめぐる対立があったとする。政孝は北島家譜では孝綱の弟とされているし、出雲氏の一族である内蔵資忠の玄孫が実政と聞いてまたびっくり。資忠と実政はともに出雲氏であるが、千家・北島家では最終的に在庁官人を父に持つ中原孝高のみならず、内蔵氏と真高・実政父子も中原姓にしてしまった。研究者の大半もこの嘘に引っ掛かってしまった。これに続いて、北島貞孝と千家孝宗の対立が千家国造の立場から述べられ、次いで近世の寛文七年の永宣旨に一気にとんでしまう。
 その後、両国造家の分立について千家国造側の主張が詳細に述べられている。掲載されている永徳三年一〇月二八日国造出雲資孝契約状についてもその解釈は微妙である。永徳元年六月二七日資孝注進状では「国造兼大社神主惣検校」と記しているが、永和元年四月 日目安状には「国造資孝代国孝」と記しており、「国造」のみで「神主」や「惣検校」を記していないので偽文書であるとまでは言えない。一応正しい文書として扱うと、国造家の分立に不満があったのは正統な後継者であった北島国造家だったことがわかる。永和元年目安状のように両国造家で協力して押領に対処すべき場面もあるし、北島資孝の子幸孝と千家直国の娘が結婚し、その間に生まれた高孝が北島国造家の後継者となった。千家側でも理由は不明だが直国の子ではなく嫡孫高国が千家国造家の後継者となっている。前述のように、直国は晩年の子に所領を譲った際には、惣領高国が違乱をなした際は、直国の孫である北島高孝に付くようにとまで述べている。仮定の話であるが、高孝が両国造家を相続し、一本化を図ることも可能ではなかったか。千家高国の代に偽文書や金輪造営図や大社近郷図、さらには嘉吉二年八月一五日付の両国造神官系譜を作成した背景にも、千家国造の後継者である高国の意思があったのではないか。 

文書からの仏教的要素の排除2

 こうした中で、康永二年三月に国造兼神主清孝が死亡すると、国造家は北島国造と千家国造に分かれた。守護代が当座の対立を回避するために異例の措置を執ったが、結果的には分立が継続していった。大社政所文書とは国造家が分立するまでに国造家が保有した文書で、狭義の政所文書を吸収していた。分立以降も、両国造家それぞれが保管する文書と、大社政所に保管される文書は区別された。具体的には、幕府が守護に命じ、さらにそれを国造に伝えた場合、守護宛の文書は政所に保管された。北島・千家両国造家の権益の区分も、その時々の出雲国の支配者との関係で変化しており、康永三年の和与状とは異なっている。その権益に応じて、国造宛の文書の保管先が決まった。一四世紀第三四半期の守護京極氏のもとでは、造営は旧記を所持した北島国造、三月会は千家国造が担当していたことが文書の保管状況から分かる。
 明治六年三月まで両国造家文書とは独立して存在した政所文書は、千家国造家が大社の祭祀を独占的に担うことになったため、千家文書に吸収されてしまった。それ以前の歴史を扱う際には、本来の文書の所蔵先を踏まえて分析しないと虚像を描いてしまうことになる。分立以前の文書で北島国造が所蔵した文書の特色として、領家との間で神主の補任権と大社領の支配権をめぐる裁判が行われたが、その主張の証拠とされた文書と、祖父である国造泰孝並びに後家覚日と父である国造孝時の文書が中心となっている。これに対応する時期の千家国造家の文書は兄である国造清孝の文書が中心であるが、その数は少ない。覚日と孝時により、清孝は一期分の国造とされたため、関係文書は清孝の死後に国造となることが決まっていた貞孝のもとに残された。前述のように貞孝が国造となる年齢に達するまでに孝時が死亡する事態となったため、清孝を一期分の国造とせざるを得なかった。貞孝は相続までは狭義の大社境内内で本殿の後方にあった国造館にいた。これに対して一期分の国造とされた清孝とそれを補佐した孝宗は境内の外で本殿の西側にあった神主館にいた。これが一五世紀に作成された可能性が大きい大社神郷図で、神主館が大きく描かれ、国造館が明確に描かれなかった原因となった。その外に文保二年一一月一四日国造孝時去渡状(大社355)と康永二年六月八日国造清孝所領配分状(大社454)も同時期に作成された。後者は永享三年七月二八日国造高国所領配分状(大社685)を念頭に作成されており、作成時期はそれ以降である。但し、千家家譜では「六月」の部分が「〇月」となっている。六月ではすでに清孝は死亡しておりまずいことに気付いたのだろう。高国の時代には誰でも偽文書であるとわかる杵築大社両国造神官系譜(大社709)も作成されている。
 なお古代文化センター編『出雲大社文書』は解説もそうだが、結果的に間違いが大変多い書物である、早急に改訂の上再発行されなければならない。先行した『大社町史』の誤りをそのままひきづったものが多いが、きちんと再検討した上で刊行すべきであった。例えば、建武五年の後醍醐天皇綸旨などは存在するはずのない文書であるが、『大社町史』(1997)そのままに掲載している。正しくは建武二年の綸旨である。(一三三八)の注記があり誤植でないことは明白である。『南北朝遺文』(1987)では流石に同日付の綸旨(名和文書)とともに掲載しているので二年となっている。

文書からの仏教的要素の排除1

 建長元年大社遷宮注進状(北島家文書、現在は出雲大社文書)については、本来あった仏教的要素(目代兼代行事源右衛門「入道宝蓮」)が削除されているが、これについて松薗氏は、削除された以降に活字化された『出雲国造家文書』と『鎌倉遺文』に対して、削除される以前に影写された北島家文書の影写本が島根県立図書館に所蔵されていると述べている(「中世神社の記録」)ので確認した。県立図書館の影写本は島根県史編纂のため明治末から大正年間に写されたものである。一方、東大史料編纂所蔵の北島家譜は一八七五年に写されたものであるが、すでに削除・修正されている(源右衛門「大夫」とある)。
 先ず『新修島根県史』古代中世史料編であたりを付けると、何故か注進状は「千家文書」として掲載されていた。原本ではなく写しであるが、当該部分は「源右衛門入道宝蓮」と本来のままであった。ということで影写本「千家男爵文書」を確認した。千家家譜も同様である。これに対して原本を所持していた北島国造家では「入道宝蓮」の部分は削除され空白であった。前述の活字本も同様である。ということで削除されたのは北島家譜が写された一八七五年以前となるが、寛文年間の造営・遷宮で仏教的要素が取り除かれて間もなくの時期であろう。県史編纂時、原本はすでに出雲大社に寄進されており「出雲大社文書」の影写本に含まれているが、『新修島根県史』では千家文書として掲載されており、これは誤解を招く。
 松薗氏にも正確な記述が望まれるが、現在残っている大社関係文書が、北島・千家いずれが所蔵していたものかは研究する上で大変重要である。島根県古代文化センター編『出雲大社文書-中世杵築大社の造営・祭祀・所領-』の解説「出雲大社文書-その成立と概要-」は意味不明な記述に終始している。すなわち、明治六年一二月一五日付千家尊澄伺を根拠に「当初の出雲大社文書は、明治元年、神祇官の古文書取り調べに応じて書き出し提出したもので、千家家伝来文書から選ばれたもの六十三通を数える」とするが、明治六年三月までは出雲大社は北島・千家両国造家が交替で祭祀にあたっており、六十三通は本来の出雲大社文書(両国造家の共有文書)と千家文書の両方から構成されている。前者は大社ならびに大社領を支配・管理する大社政所文書というべきもので、その管理にあたったのが領家が補任する神主であった。当初は国造家以外の人物が補任されることも珍しくなかったが、宝治の造営を国造が担ったことで、政所文書は国造家文書との境目があいまいになった。文永七年正月に大社本殿が焼失し、その造営が課題となると、大社領家は出雲真高・実政父子を補任したが、これに反発する国造家は鎌倉幕府と結んで、造営旧記を所持する国造が神主に補任されなければ、本殿の造営は不可能であることを主張し、神主の座を取り戻すことに成功した。ただし、出雲実政の後継者は領家から雑掌・預所に補任されることで、神主となった国造家との間で裁判を継続し、対抗した。

 

2020年9月 9日 (水)

出雲大社造営年略

 標題の史料は東大史料編纂所に写本が所蔵されている。写本の作成は明治一五年頃とされ、内容は明治一四年までを記している。内容からすると、政府の方針で大社の祭祀が分立時の兄である千家国造に一本化されたことを受けて作成されたものであろう。歴史史料としては史料批判なしには使用できないもので、分立後の大社遷宮は寛文七年まではすべて千家国造が行ったことになっている。それが延享元年の遷宮は両国造が行ったが棟梁は北島国造が行ったことが記されている。その末尾の解説には、𨨞始・柱立・棟上・遷宮の四規式あり、古来は四式ともに千家国造が棟梁であったが、慶長年間の造営時に堀尾氏の仲裁で柱立と棟上が北島国造が棟梁とされたこと、寛文七年に松平氏の仲裁で四式は両家が交替で行うことになったことを記す。それによって延享元年の遷宮の棟梁が北島国造とされた。
 以上により資料的価値は高くはないが、ここで注目したのは、天永三年と建久元年の遷宮に関する記述である。建久二年の写し間違いにより混乱が生じたが、ここでも永久二年六月六日と永久三年六月一八日の両方に遷宮が行われたことが記されている。執行したのは国造兼宗である。ただし、それに先立つ天仁元年一一月一五日の仮殿遷宮は「国造兼忠」が行ったとしている。兼宗とすべきところを誤ったのであろうが、チェックが不足している。
 建久元年の正殿遷宮に先立つ仮殿遷宮についても、承安二年一一月一九日と安元元年一一月一九日の二つを記し、いずれも国造兼経が執行したとする。多くの造営の記録では「国造兼神主出雲宗孝」が執行したとされているのになぜであろうか。答えは国造の家譜ではその時点の国造は兼経とし、神主であった宗孝が国造を兼ねたのは安元二年からとなっているからである。兼経系との国造をめぐる争いは「今ハ昔」となっており、このように書いたからといって、国造を交替せよとの要求がでないためである。ただし、実際に仮殿遷宮が行われたのは治承三年一一月で、それ以降、正殿造営が開始されたので出雲守藤原朝定が治承五年正月に重任を認められたことはすでに述べた通りである。ちなみに『出雲国造家文書』巻末の系譜では、承安二年一一月一九日に兼経が仮殿遷宮を行い、安元「二」年一一月二九日に宗孝が仮殿遷宮をしたと記している。
 家譜では仁安三年から足かけ九年間兼経が国造を務め、その死亡後、宗孝が安元二年から一〇年間国造であったとする。ところが、国造北島氏系譜抄録(『出雲国造家文書』242)には兼経の在任期間が一八年となっており困惑したが、これでは孝綱五四年、政孝三〇年以下国造の在任期間が実際よりかなり長くなっており、信頼性にかける。家譜の在任期間で問題なかろう。一七世紀半ばに千家国造が後代の為に書き置いたとする記録があり(『新修島根県史』史料編)、主に日御崎神社との対立について述べられていたが、守護の裁定で敗れた事例もすべて勝訴したと書かれており、裁判がらみの史料の使用には注意が必要である。ただし悪いのは見抜く力のない研究者であると思わない限り、進歩はない。

2020年9月 8日 (火)

出雲政孝と造営旧記

 出雲政孝は孝房の子で孝綱の弟である。現在の北島・千家両国造は政孝の末裔となる。兄孝綱流に代わって弟政孝流が国造家を継承したのはなぜであろうか。政孝が国造であったのは嘉禄元年(一二二五)から七年間である。国造になったのは前任者である兄孝綱が死亡したことしかありえない。嘉禄元年四月二一日承明門院令旨(大社二〇〇、姉小路親王令旨という名称は意味不明)は、政孝が神主職への補任を求めた事に対して出されているが、領家が政孝を神主に補任したのは嘉禄二年七月であり、条々請文を領家に進めた結果であった。嘉禄元年七月一九日領家袖判御教書によると、五月に元の如く権検校に補任された出雲真高について、政孝が反対意見を述べている。これが神主としてであるか、神主を望む国造として提出した請文の中であるかが問題だが、それに続く部分で神主である孝高が、以前は「領家の命で神主孝高と権検校頼孝が孝元を追い出した」のに、現在は頼孝の子真(実)高が敵人であるとして自由に任せて、真高を権検校に補任すべきではないとあるので、後者が正解である。
 最近見解を修正したように、承久の乱により在庁官人No2の座にあった中原朝臣が国衙庁事と郷司の座を失ったのは確かであるが、大社領は本家が乱に関与しなかった土御門院であったため、影響は小さかったと思われる。よって、乱の前後を通じて神主は中原頼辰と国造の娘との間に生まれた中原孝高であった。建保七年三月一一日「杵築大社散位出雲孝綱」去状のように、国造職と惣検校職を孝綱が舎弟政孝に去り渡すことなど不可能である。孝綱死亡時に孝綱の子と舎弟政孝との間で相続争いがあったが、政孝勝利のポイントは造営旧記の所持であり、嘉禄の仮殿造営時に神主に補任されたのも同様であった。
 造営旧記は建久二年に神主内蔵資忠に代えて国造孝房の神主補任を求めた在庁官人等解に副えられたものであったが、裁判は敗北した。建久元年六月一八日の遷宮の少し前に孝綱が資忠に代わって神主に補任されたが、遷宮後まもなく、神主は資忠に戻された。だが、この短期間の神主補任時に、過去の造営関係史料を抄出して作成したのが造営旧記であった。この時点では国衙にはさらに詳細な史料があり、それを参照すれば、神主が国造でなければならないとの主張に根拠がないことが判明し、この時点での造営旧記の資料的価値はそれほどなかった。それが承久の乱で出雲国衙の有力在庁官人が根こそぎ排除され、国衙が保管していた資料も失われた。そのため造営旧記の価値が一気に高まったのである。建久三年に内蔵資忠が神主に再任されたため、忘れられていた資料を発掘したのが政孝であった。
 政孝が死亡した時点で国造職をめぐり、政孝の子義孝と孝綱の後継者の間で対立があったと思われる。寛喜三年三月二五日出雲政孝譲状は明らかな偽文書である。「譲渡」とくればそれに続くのは所職であるが「可早知行」等という、領家下文か幕府下知状を思わす表現が来ることなど100%ありえないし、惣検校職を譲ることは不可能である。
 鎌倉遺文の編者竹内理三氏が造営旧記は宝治の造営時に写されたとの説を出されたのはいたしかたないが、それ以降、関係史料を精読した人が、これが建久二年に作成されたことに気付かないのは研究者としてなさけない。建治二年二月 日領家下文に、嘉禄造営時に参照すべき旧記がなかったため造営が進まなかったところで、義孝の父国造政孝が重代造営日記文書所持していたがために神主に補任されたと記すのは紛う方無き真実だが、家の日記や譲状を研究する松薗斉氏が、これが事実なら何故以前の紛争時にその所持を主張しなかったというコメントを付し、建築史の山岸常人氏もこれに賛同しているが、ともに一度頭の中をリセットしない限り研究は不可能である。すべての誤りの根源は、造営旧記が建久二年に作成されたことがわからなかったからである。松薗氏と山岸氏のみを批判してもしょうがないが、これが研究のレベルである。
 

 

2020年9月 7日 (月)

一四世紀以降の大社本家

 松安隆跡を検討する中で、山科氏は井上寛司氏説のように、光隆跡としての領家職ではなく、範子内親王(坊門院)跡としての本家職を簒奪したとの理解に達した。そうすることで、応永三〇年五月 日柳原宮家雑掌定勝申状との整合性を図ることができる。戦国期の山科家領は柳原宮家が押領されたと訴えた遙堪郷、鳥屋郷、千家郷、富郷、伊志見郷、石塚郷の六郷であった。
 本家職については坊門院→土御門院→承明門院→安嘉門院→亀山院と継承されたことを明らかにした。これに先立つ二〇〇四年の論文では、元亨三年八月に後醍醐天皇から永嘉門院に大社領が返されたことも明らかにした。問題は、亀山院が死亡した嘉元三年九月一五日から永嘉門院が支配を認められた元亨三年八月一四日までの本家である。大社領は安嘉門院領から亀山院領となったが、大半の安嘉門院領が後高倉院領であったのとは異なり、承明門院領であった。永嘉門院(瑞子)の父宗尊親王は文永三年に将軍を退任して京都に送還されると、父後嵯峨の祖母の御所であった土御門殿に住み、土御門通具の曾孫にあたる女性との間に一男一女をもうけた。この一女が永嘉門院である。後嵯峨自身も父土御門が承久の乱で土佐に配流されたため、祖母承明門院のもとで育てられた。その意味で、永嘉門院は承明門院の後継者でもあった。
 大社領が亀山院領となったとしたが、永嘉門院は亀山の猶子となり、后妃でも内親王でもなかったにも関わらず院号宣下を受けた。次いで亀山の子後宇多の後宮に入り、後宇多の後継者で早世した後二条天皇の子邦良親王を養子とした。永嘉門院と亀山・後宇多との関係と、大社領が承明門院領であったことから、亀山の没後、後宇多-後醍醐と受け継がれた大社領が、元亨三年八月に永嘉門院領とされたと思われる。永嘉門院は父宗尊親王が譲られることなく死亡した室町院領の相続を正安三年に求め、幕府により一旦はその内の半分を認められたが、永嘉門院が大覚寺統に属していたため、持明院統が強行に反対し、決定は破棄された。次いで元亨三年に幕府に越訴を行い全体の四分一程度を永嘉門院領とする裁定が出たが、今回もまた持明院統が反対したため、幕府は最終的には永嘉門院の越訴を棄却した。
 柳原宮家雑掌が訴えた所領以外は、柳原宮家が支配していたかどうかがポイントだが、前述のように領家の支配も貞和二年までは確認できるので、その前後に、両者で分割がなされ、残る高浜郷、稲岡郷、武志郷、北島郷、求院郷、出西郷が領家分とされたのだろう。その後領家分は幕府や守護京極氏領をへて戦国大名尼子氏領となったが、その時点では「本家分」と表記されており、本家と領家の区分は消滅し、地頭分に対する用語として使用された。これに対して山科家領は一五世紀末までは維持されたことが確認できる。
 以上により、不明な点が残っていた本家の問題について結論を得ることができた。

 

2020年9月 6日 (日)

松安隆とは誰か?

 宝徳元年(一四四九)一一月三〇日室町幕府御教書(佐々木大膳大夫=守護京極持清宛)によると、八幡宮神人楠葉方が松安隆跡を語らって放生大会還幸を捍置(妨害の意ヵ)し、嗷訴(ごうそ)に及んだ結果、大社神主職と一二郷神領について松安隆跡の権利を認める御教書が出されたが、何らかの理由で召し返された事を、出雲守護京極持清に伝えている。
 楠葉方とは、一五世紀に勘合貿易に従事して巨額の富を得たことで知られる商人楠葉入道西忍の一族であろう。経済力を持った楠葉方が利用したのが大社領に関して権限を有する松安隆跡であった。建武三年時点で国造家と本所=領家雑掌との間で相論が続いていたが、領家とは松殿であった。貞和二年(一三四六)八月にも十二郷内で雑掌と千家国造孝宗が合戦したため、守護代厳覚が幕府侍所に報告しており、この時点でも領家松殿氏は存続していた。
 大社並びに大社領の庄園領主としては永嘉門院の後継者である本家柳原宮と領家松殿氏がおり、「松安隆」で検索しても、当該史料以外は何もヒットしないが、大社領家であった松殿氏の関係者であろう。永徳年中に山科氏が将軍義満の近習という地位を利用して、由緒の子細があると号して柳原宮の権益を奪い、戦国期まで大社領を支配していた。山科氏は鳥羽院の寵臣藤原藤原家成の子実教の末裔であるが、実教は大社領家藤原光隆の娘を妻としていた。これが山科氏が権利を主張した背景だとされたが、よくみると、光隆の娘を母とするのは公頼と公長であり、山科氏を名乗った教成は平業房と丹後局(後に後白河院との間に宣陽門院を産んでいる)の間に生まれ、実教の養子となった人物で、光隆との関係はない。
 一方、教成の養父実教は斎院範子の時期の斎院長官を務め(次官は光隆の子兼隆)、前斎院範子が立后され甥である土御門天皇の皇后宮となった際には勅別当実教が皇后宮権大夫となり、後には大夫となっている。その際の権大夫が光隆の嫡子雅隆であった。大社領は範子から土御門院に譲られており、教成の子孫である山科氏が主張した由緒とは養父実教が本家範子のもとで大社領に関わった権益ではないか。一見すると無理筋であるが、将軍義満の近習という立場があれば無理は十分通るのである。

2020年9月 5日 (土)

文書の声を聴くー差図と譲状6

 これ以降のことについては過去に述べたことがあるので今回はここまでとするが、これまで気付かなかった点を多数確認できた。井上寛司氏が「中世杵築大社の上官」(大社町史研究紀要2、1987)では分立後、千家方優位の体制であったと評価されたが、実態はその逆で北島方優位であった点を確認できた。守護代厳覚が仲介して康永三年六月五日の和与状が結ばれたが、これはあくまでも当座のもので、正統な後継者である北島貞孝からすれば、幕府の裁判で証拠調べが行われれば自らが勝利することは明白であったから、とりあえず受け容れたものである。ただし、述べてきたように孝宗が厳覚を利用して相続しようとしたこともあって厳覚は中立の仲介者とはなりえなかった。貞和五年(一三四九)五月一四日の時点で裏を封じ、それ以降に判決が出されなかったことも不可思議である。しいて言えば、守護が京極氏であったことのみであろうか。それゆえ、南朝支配下では北島方が優位であった。それが京極氏の支配下となると、曖昧にはなるが、造営旧記と差図を有している点で北島方がなお優位であった。ただし、塩冶氏庶子義綱のように、大社に寄進した所領を孝宗が支配することを寄進状に明記する例もあった。
 康暦の政変後は山名氏が守護となり、再び北島方優位となった。一方で、千家方も造営旧記と差図を譲状に明記するようになったが、原本は北島方が所持しておりどのようなものであったかは不明である。今回は山岸氏の論文で指摘された譲状と差図の関係を再確認するため、関係文書をみた。千家方で差図が副えられていた最後の譲状=一四六一年位後に、現在残る「金輪造営図」と「大社神郷図」が千家方で作成されたため、北島方には情報がなかった。北島方とすれば本殿の背後にあった国造館が記されていないことに驚いたであろうが、さらにはこれを根拠に国造館が現在の千家国造館の場所にあったと言われてさらにびっくり。両者の分立に関わる事実関係は両者も熟知しており、どちらが嘘をついているかは当事者には自明であるが、現在にいたるような、歴史を偽造した不可思議な状況が生まれた。
  史料を読み取る力(センス)のない人が論文を書くのは、公害を垂れ流すのと同じく社会に対する犯罪なので、レポートレベルで止めてほしいというのが切実な願いである。研究会が盛んに開かれて議論の後に論文が発表されれば、状況は改善するが、現実はさらに悪化している。言い方を変えれば、力のない人は研究会を盛んにして他の人の意見を聞ける場が増えるよう努力することが自分の役に立つ。さらに過去の論文の誤りは一刻も早く訂正してほしい。

 

文書の声を聴くー差図と譲状5

 直国の孫であった北島六郎三郎高孝は長命であったが、文明一七年(一四八五)三月には、高孝の後継者である孫の塩太郎(後の雅孝)が一五才未満で職務を務められないとして、高孝の子利孝が国造となり、火継を行い、塩太郎が社職と社領を知行することには相違ないとの契約状を出している。高孝は明応五年三月時点でも健在であり、孫塩太郎(丸)はまだ生まれたばかりであったのだろう。過去にもみられた相続争いが生まれる典型的パターンであるが、永正三年(一五〇六)二月には雅孝が国造を継承していることが確認できる。雅孝が庶子家から入って北島国造を相続したとの理解は誤りである。
 『大社町史』では千家国造でも明応四年(一四九五)一一月に国造高俊が子珍宝丸(後の豊俊)に国造職を譲ったが、幼少であり職務を執行できないため、一族の東高頼に神職が預けられている。こちらも永正七年には豊俊が国造となっていることが確認できる。そしてこの雅孝と豊俊が尼子経久の娘を妻とした。両国造家と結んでいた塩冶氏は永正三年に守護京極氏の攻撃を受けて降伏した。その後、両国造家には尼子経久の娘が室として入り、経久の子興久が塩冶氏を継承した。塩冶氏の娘との婚姻関係は確認できず、尼子氏の支配下に入った。
 北島雅孝と経久娘いとうの間には男子が誕生したが、雅孝より先に一七才で死亡したため、相続できなかった。一五才以上であっても前任者が健在なら相続できないのである。大永四年(一五二四)三月に雅孝が国造職をいとうに譲っているのは男子死亡の直後であろう。新たな子が誕生しない場合はいとうが養子を迎えて譲ることまで記しているが、関係者には不満が強かったと思われる。とすると、塩冶氏攻撃の直後にいとうが雅孝の室となり、男子を産んだことになる。なお、国造は男子のみであり、いとうは雅孝が死亡した際の後継者を決定することができるという意味である。千家豊俊には男子がなかったため、甥の新十郎高勝に国造職を譲り、享禄二年(一五二九)九月二二日に尼子経久が安堵している。

 

文書の声を聴くー差図と譲状4

 康暦の政変(1379)により出雲守護は京極氏から南朝時代の状況を知っている山名氏に交替した。義幸は師義の嫡子である。永徳元年四月二日出雲守護書下は宛名以外は同文であり、国造職の相論により仮殿遷宮(造替は終了)が遅れているとして、裁判の判決を急ぐので、対立は休戦し遷宮を早く遂げるよう、両国造に命じている。六月二七日に北島資孝が元亨年間の仮殿遷宮の儀式を報告しているのはこのためであろう。そこでは「国造兼大社神主惣検校」と署名しているが、千家方が惣検校職を持ちだしたためであろう。この時の遷宮は北島方が行っている。
 その後の関係史料としては、応永一〇年七月一〇日に資孝・幸孝父子が今後は千家国造の相続時に支え申すことはしない旨を約束した書き違え状がある。ただし、北島文書にはなく千家文書にのみ残っている。これに対して応永一四年八月に資孝・幸孝父子が領内の狼藉への対処を定めている。これも千家文書にのみ残っているが署判順は書き違え状とは逆(資孝が先)である。年未詳霜月一三日北島資孝・佐草泰信連署書状(秋上宛)では上位者資孝が先に署名している。この点からすると、書き違え状は要検討である。
 ただし両家の和解は進んでいたようで、資孝の子幸孝は千家直国の娘と婚姻関係を結び、資孝と直国の共通の孫北島六郎三郎が誕生していた。応永二四年一二月には資孝が国造・大社神主職を旧記・差図、関東下知状以下の社家の古記をゆや六郎に譲っている。ただし、三郎に子がない場合、譲状を「内ハう」に渡してはならないとしている。「内ハう」とは三郎(=六郎三郎)の母=千家直国娘であろう。『出雲国造家文書』の編者村田正志は三郎を資孝の子幸孝に比定しているが、貞孝以来の北島国造惣領は六郎である。三郎に子がなく、国造・神主職が千家方に移ることは許されないとしている。子がない場合は北島方の関係者に譲れとの意味であろう。北島六郎三郎とは北島家の嫡子を示す「六郎」と千家国造直国にちなむ「三郎」にちなむ仮名である。直国の嫡孫は助三郎高国であった。応永二七年正月に直国は晩年の子であろう与三通国に分与した所領に惣領高国が違乱を成す場合は、孫である北島六郎三郎方に付くように置文を作成している。
 直国は応永三五年(一四二八)二月に嫡孫子高国への譲状を作成しているが、初めてのものではなく何回目かのものであろう。「国造兼大社神主惣検校」と記しているのは北島家との和解によるものであろう。これ以降は国造と惣検校のみとなり、分立後千家方が神主職を使用した唯一の例である。ここでも「当社造営旧記差図」がみえる。北島国造では資孝の子幸孝をとばして孫である六郎三郎高孝に譲り、千家国造でも直国の子ではなく孫高国に譲っている。嘉吉元年(一四四一)一〇月には幸孝が後家分の所領を関係者に譲っているが、国造・神主職については言及していない。後家とは資孝の後家であろう。文安六年(一四四九)三月には高国が嫡子持国に「国造職兼大社惣検校職」を譲っているが、そこには「当社造営旧記・差図」が相副えられている。それは寛正二年(一四六一)五月の千家持国譲状でも同様で、嫡子助三郎直信に譲っている。

 

文書の声を聴くー差図と譲状3

 そして、北島方が正統性の根拠とする文書は、領家との裁判のため孝景が京都に持って行ったものだが、裁判費用を捻出するためか、孝景が質入れしてしまった。その返還について孝景と清孝の間で文書引き渡しの契約が結ばれたが、孝景は文書を貞孝方に渡してしまった。契約の実行を孝景に求めたが、死亡したため、その後は孝景子時孝に幕府御教書が出されていると。建久二年(一一九〇)と五年(こちらは後年作成の偽文書)の在庁官人等解状に記された内容が、裁判の一方の当事者が主張するもので、事実とは異なっていたことはすでに明らかにしたとおりである。今回の神官申状も在庁官人等解とともに眉唾ものであり、これを事実と思うと本質がみえなくなってしまう。その辺りは両家が保管する分立前の文書の違いを確認すれば一目瞭然である。
 応安元年九月の幕府御教書に基づき仮殿造営のための材木の採取が始まったが、資孝の抵抗で遅れていることも述べるが、前述のように、北島方の権限であったのに千家方もこれに関わろうとするため、生じた問題である。千家方が根拠としたのは当座のものでしかなかった康永三年六月の和与状であった。応安元年一〇月には孝時の子弘乗が父から譲られた田畠の件で資孝の濫訴を退けるよう求めているが、そこで根拠とされたのが孝宗と貞孝の康永三年の和与状であった。最後には守護が資孝と孝宗の裁判に関して両者の持つ手継文書の提出を求めたが、資孝が催促に応じず、病脳と号して伯耆国に赴いたことを批判しているが、一方の主張を鵜呑みにすることはできない。
 この翌年の応安四年一二月には千家孝宗が「国造職兼杵築大社惣検校職」を嫡子直国に譲る旨を記した譲状を作成している。そこには公家・武家の代々御下文とならんで「当社造営旧記・差図」が登場する。分立前に兄清孝の職務を代行していた孝宗もその存在は知っていたが、情報量の多くない差図はいいが、造営旧記がどのようなものであったかは不明であるが、文永一二年に国司に提出した仮殿と正殿造営の目録であろうか。両国造家共有のものであった。『南北朝遺文』はこの孝宗譲状について「疑ハシキモノアレドモ、姑クコ々ニ収ム」とのコメントを付している。『大社町史』ではこの一つ前の別火貞吉起請文写に「文書の内容や年号に若干の疑問あり。検討を要する。」(当方は問題はないと思う)としているが、『遺文』はこちらにはコメントなしである。両者を間違えた可能性があるが、きちんと検討すれば孝宗譲状が異例であることがわかる。孝宗は清孝から「出雲国造・杵築大社神主職并所領等」を「旧記并代々御下文以下文書」を相副えて譲られていた(ただし問題となる譲状にもかかわらず、死に際してのものである事を含めて、その経緯を一切記しておらず、要検討文書である)。にもかかわらず、「神主」ではなく「惣検校」と記している。二年前の神官申状でも相論は「当社国造兼神主職相伝真偽条条」と記していた。この点は親から譲られたのではなく、守護の安堵を根拠とした孝宗が従来の伝統を破棄したためであると二〇〇四年の旧稿で記した。譲られた嫡子の名前にも「孝」の字が含まれていない。当初は「孝」の字を付けていたが、今回の孝宗の決断により改名した可能性が高い。

文書の声を聴くー差図と譲状2

 正平一二年六月一七日後村上天皇綸旨により、仮殿造営と三月会は貞孝が沙汰するよう命じられている。ただし困難が伴う造営は守護の反応ははかばかしくなく、九月一八日にも再度綸旨で命じられている。一方、正平一三年一二月二一日後村上天皇綸旨により千家五郎孝宗に対し、神職として祈祷を行うことが命じられている。北島、千家両方を神職として認めているが、造営・遷宮と三月会は北島貞孝の権限としている。貞孝申状では、孝宗が国造職継承に必要な神火神水を受けていないことを主張し、造営旧記を証拠として提出して造営・三月会の執行を認められた。
 貞治三年(一三六四)八月に山名時氏が幕府に帰参したことで、出雲守護京極導誉による支配が復活した。時氏の嫡子師義はこれに先立つ三月八日の美作国寺院への安堵状で「貞治」年号を使用し、四月二五日には塩冶郷の新たな惣領と思われる人物が塩冶郷内新八幡宮神主職を安堵し、五月一〇日には塩冶遠江守義綱が神門郡塩冶郷内田地一町を杵築大社に寄進し、国造孝宗に領掌するよう命じている。出雲国の支配者の交替を契機に、北島方に対して劣勢であった千家方が京極氏や塩冶氏に働きかけたのだろう。この状況に対して北島方は父貞孝の死亡により神主を継承した資孝が、上聞を掠めた孝宗の不当な訴えを棄損し、南朝時代と同様、自分に造営・三月会を命じるよう幕府に求めている。その際、資孝が孝宗との差別化のため示したのが、神火神水を受けたことと、旧記・差図・神宝を帯していることであった。
 資孝は孝宗について、父孝時が死亡した際に遺骨を拾い触穢不浄身になったため神火神水を受けなかったとするが、弟貞孝が神火神水を受けるために神魂神社に赴いた際に、何らかの理由を申し立てて、同行しなかったのであろう。当然、それは貞孝不在中に国造・神主を守護代厳覚から認めてもらうためであった。これに対して孝宗側が提出した申状は残っていないが、その後の文書をみると、幕府は貞治六年五月には、守護と国造に対して三月会の執行を命じ、孝宗も貞治七年六月三日発給文書では「国造孝宗」と署名している。守護宛文書は両家共有の大社政所に保管され、国造宛文書は千家国造が保管した。一方、幕府は応安元年(一三六八)九月には守護と神主に宛てて仮殿造営を行うよう命じている。守護宛文書は政所に保管され、神主宛文書は北島国造が保管した。応安二年二月には国造宛に守護代と相共に仮殿造営の沙汰を行うように命じ、その文書は北島国造が保管していた。このように権限が分かれたのは造営旧記を北島方が所持していたからであろう。
 応安三年八月二八日には千家方の大社神官一〇名が孝宗と資孝の相論について孝宗を支持する申状を提出している。そこには、孝時から相伝した国造・神主職を清孝が孝宗に譲ったことと、譲状=前述の①は佐草禅光の手跡だということを述べる。次いで、清孝が病気であったため生存中から孝宗が代官として職務を行っていたため、清孝が譲ったとする。清孝が家督を継承したことは、建武年中に兄弟一族神官等の連署状で明らかとし、これも佐草禅光が執筆したものだとする。併せて現在は北島方である禅光の子孫明簡が判形を加えていることも記す。ただし、連署状は清孝と叔父孝景の対立に関するものである。泰孝が両職を孝時に譲った際に、孝時の後継者は孝時の子孫と孝景の子孫の中から泰孝後家覚日が決定することとしていた。孝景は覚日の子であるが、覚日は混乱を避けるため清孝の相続を認めていた。

文書の声を聴くー差図と譲状1

 康永二年(一三四三)三月の出雲清孝の死亡により北島貞孝と千家孝宗の対立が発生し、三月会以下の神事があわや合戦という事態のもと実施不能となった。そこで守護代が当座は和与を行うよう求め、幕府・守護の上裁に委ねることとなった。翌康永三年年六月五日に結ばれたのがそのための和与状であった。これを北島は残さず、千家のみ残しているのは北島方の不満が大きかったからであろう。康永二年六月八日付けの国造清孝知行配分状は、清孝死亡後のもので偽文書である。
 幕府での裁判が行われていたのは、関係する①建武元年八月一〇日国造兼大社〔「司」欠ヵ〕出雲孝時譲状(千家文書、清孝へ譲る)、②建武二年一一月二日国造神主孝時譲状(北島文書、あかこまろ=貞孝に譲るが、兄清孝に一期分のみ認める)、③康永二年五月一六日妙善書状(千家文書、清孝から譲られた孝宗が火継を行ったことを記す)の裏が封じてあることからわかる。署判者は諏方円忠と雑賀貞倫で五月一四日付であるが、何故か①③は貞和五年、②は貞和二年である。『大社町史』、『南北朝遺文』によるが、明日のところで、北島文書の影写本で確認する(北島家譜では五年とする。原本の写真は不鮮明だが五であったのが消えたものであろう)。①③の千家方が提出した文書に対しては、北島方が①は謀書で、③は聞いたこともなく知らないと述べている。北島方が提出した②については一字が判読不能ではあるが、千家方も承伏せざるを得なかった。これを見る限りは北島方が千家方に対して裏付けのある事実で優位に立っている。また、清孝から孝宗の譲状そのものは問題となっていない。清孝への譲りが一期分なら無効だというのが北島方の主張であろう、その後、観応の擾乱の発生により裁判は一時中断したと思われる。観応三年(一三五二)八月に山名時氏が伯耆国から出雲国に攻め込んで以降は南朝方が優勢であった。
 南朝の法廷で行われた裁判に関しては正平一二年(一三五七)正月 日北島貞孝申状案(北島文書)が残っている。貞孝は一期のみの相続者であった兄清孝が死亡したので、亡夫孝時の譲状に任せて、神火神水を受けて(本来これは国造職に付随するもの)造営・遷宮や祭礼を勤行しようとしたところ、兄孝宗が守護代吉田厳覚と結んで競望してきたとしている。その最初の対立が三月会であった。兄清孝は三月末に死亡したと思われ、そのため三月会の執行は遅れていた。そこで貞孝は火継神事を終えて正式な国造・神主としての職務を行うため杵築に戻ったところ、兄孝宗が守護代吉田厳覚に死亡した兄清孝からの譲状を示して、国造・神主を相続したと主張していた。現在でも国造関係者以外で国造相続の原理をきちんと理解しているは当方のみであり、不案内な吉田厳覚が知らなかったのも無理はない。

 

2020年9月 3日 (木)

藤原顕隆と俊忠

 待賢門院・崇德院流のキーマンとした顕隆と俊忠であるが、史料総覧作成資料で顕隆の系図(尊卑分脈)をみていたら注目すべ記述に出逢ったので確認する。それは藤原家政との間に雅教(1113)を生んだ娘が、その二年後に家政が死亡したため、俊忠との間に、公能室豪子と顕長室俊子等を産んでいることである。この系図は尻付が一行ずれており、最初は実能の室となった娘が後に俊忠の室となり前記二名を産んだと理解したが、さすがに近親すぎる。豪子は公能嫡子実定を産み、俊子は顕長嫡子長方を産んでいる。顕長には德大寺実定の室となった娘や藤原雅長(雅教と顕隆の子顕能の娘との間に生まれる)の室となった娘がいる。以上のように二人のキーマン顕隆と俊忠が結びついた。
 顕隆には中納言雅憲の室となった娘と左大臣実定の妾となった娘も記されているが、前者は該当者不明のため流布本では母の欄は空白で、後者は実定が実能の孫であることからして物理的に不可能である。顕隆は1129年に死亡しているのに対して、実定はその一〇年後に生まれている。公能なら物理的には可能だが極官は右大臣であり、これも近親すぎるので左大臣実能妾が正解であろう。雅憲室については家政の嫡子である中納言雅教室であろう。これなら姉の子との婚姻となり、当時は行われていた。家政の娘は清隆との間に光隆を産むとともに、近衛天皇の乳母にも選ばれた。
 以上、顕隆の娘二人について確認する中で、俊忠並びに德大寺実能との関係が判明した。また顕隆の関係者の間で頻繁に婚姻関係が結ばれていたことも判明した。顕隆の嫡子顕頼も俊忠の娘を正室とし、嫡子光頼以下惟方、成頼、祐子(滋子の母)、頼子(最初頼長の庶長子師長の室となるが、保元の乱で師長が配流されたため離縁し、光頼の子宗頼の室となっている。俊忠の子顕広(後の俊成)が顕隆の嫡子顕頼の養子となったことは有名である。

 

2020年9月 1日 (火)

九月初めの近況2

 スズキ車に多く採用されているデュアルセンサーブレーキはトヨタの車に採用されていたセイフティセンスCとハードは同じ独コンチネンタル社製だが、検査をめぐる問題でスイフトの発売が遅れたため、ソフトウェアが更新されて人間を検知することが可能となった。一説にはこのブレーキを大量に確保するため、トヨタとの提携をしたとされる。現在はさらに提携がすすみ、トヨタ製PHEVがスズキに提供され、インドでは日本では販売が中止されたバレーノがトヨタに供給されている。自動車各社はトータルの燃費を改善しないと、高額なペナルティーを支払わされる時代が来るようだが、トヨタを除く全世界のメーカーはその数値の達成の見通がたっていないとも言われる。一方では中国が電気自動車の比率を高める数値目標を立てたが、リチウムイオンバッテリーの発熱問題がネックとなり、その実現は先送りとなっている。電気自動車の場合、従来のガソリン車で培った技術的優位が失われるため、日本のメーカーは戦々恐々であった。
 ダイハツのスマートアシストⅢに変わるⅣが出てこないが、一つの理由にカメラ等中心部品の供給元であるデンソーとの間に大量の購入契約を結んでいるため、それを使い切らないといけないとも。ダイハツはトヨタの傘下であり、系列のデンソーに配慮しないといけないとも。デンソーも国際社会がその活動舞台であり、製品の性能アップは至上命題であるはずだか‥‥。ホンダセンシングも以前は日本製単眼カメラとミリ波レーダーだったが性能は今一で、それを独ボッシュ製に変えたら劇的に向上したとも言われる。最初の車がNボックスであったが、フィットからは広角の単眼カメラに変えてしまった。カメラタイプよりミリ波レーダータイプの方がACCの性能は良いそうで、スマアシⅢやフィットのACCは今一ともされる。東京モーターショーに出店する自動車メーカーは激減しているが、自動ブレーキなどの売り込みをはかるメーカーの出店は増えているとも。

九月初めの近況1

 八月末からほとんど時間が経っていないが、ある意味では新年が到来したことになる。欧米では九月が入学の時期であり、大学はそちらに合わせることで改善が期待されたが、愚かな政府関係者が小中高をも巻き込んでしまったため、挫折した。高校卒業から大学入学までに半年間の時間があれば、改善される点は多い。また大学卒業から入社までに半年あると問題が解決できる。これに対して親は子どもの教育費が増大し、企業への入社が一年遅れることが気になるだろうが、政府の政策として行うことで、マイナスは少なくなる。大学以外の専門学校や各種学校は四月入学と九月入学が選べるとよい。
 退陣表明後の状況からは自民党の腐敗がこの長期政権の間に深刻となったことがわかる。現在の選挙違反者や麻雀検事総長候補の背後にいた悪(巨悪かどうかは不明)の一人を総裁にしてどうするのか。ふるさと納税やGO TOキャンペーンの問題から、現在の力量は過去とは比べられないほど低下していることは明白である。それどころが議員定年制からすればとうに過去の人だった人物が幹事長というのは悪い夢をみている気がする。地元の市長選挙で息子が落選したことがこのおじいさんの力量を示している。落ちるところまで落ちたほうが、変化が期待できるという面もあるが、現在の生活に困っている人はやりきれない想いであろう。歴史的人物をみても晩節を汚すことはよくあり、早くに亡くなった人の方が評価が高い。退陣する首相は政治家となって以降汚し続けてきた人物である。国会議員が自分の当選にしか関心がなかったのは以前も同様であったが、知的レベルの低下は著しい。必要なのは政治家としての自己の力量を高めることである。意見の違いがあるのは当然であるが、異なる意見の人と根拠を示し合って論争できる政治家が求められているが、現在は言い訳と自己弁護に終始する政治家ばかりである。一方では少数だが評価出来る政治家もいる。十分な情報を持っていないので、実際にはもっといるかもしれないが。
 ネット上には様々な情報があるが、トヨタ・ヤリスとホンダ・フィットで前者の方が販売台数が多い点について、レンタカーなどの需要が多く、個人向けはそう多くないとの記事があった。もう少し時間が経てばその真偽は判明するだろう。ただし、一定年齢以上の人が運転しやすい車がだんだんなくなっている。カローラの前モデルはじいさん専用とまでいわれたデザインで、問題はあるが、ある種の人にとってはよかった面がある。ただし、ビッツのプラットフォームを流用したので、少し速度が上がると危険な面があったともいう。新型は海外で販売しているモデルと同じプラットフォームだが、前後長を減らしたので、前席はよいが後席にしわ寄せがきているそうだ。ヤリスである必要はないが、一台ぐらいは道具に徹した車があってもよいのではないか。

 

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