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2020年8月 2日 (日)

丹後国北野社について1

 ネット上で情報を探していると、偶然、予期せず重要な情報と遭遇することがある。今回は嘉禎期の守護のリストを記した資料を所蔵する資料館を確認しようとして「丹後郷土資料館」だったかなとうろ覚えで検索して遭遇した。正解は丹波篠山市立青山歴史村の「青山文庫」というコレクションに含まれており、「古文書研究」掲載論文の論者木下氏のブログから国文学研究資料館が撮影したマイクロフィルム画像へ飛ぶことができ、確認した。
 ブログの前の記事で日本海側の国々ではコロナ感染者が確認されているのだろうかと調査している途中で、寄り道したものであった。日本海側に限らず、中世・近世と水運の拠点として繁栄した地域は明治以降の鉄道開通ですっかり衰えていることを認識させられた。房総半島先端の安房国も院政期の知行国主や鎌倉幕府成立期の状況を見るとその重要性がわかるが、現在の人口は少ない。完全ではないが、旧安房国関係では医療従事者に一名感染が確認されているようだ。その人は東京からの通勤者である。予想通り少ない。丹後、丹波、但馬といえば院政期の国守ならびに知行国主は院近臣とその関係者で占められている。北陸若狭も同様であるが、現在の人口は一〇万にも満たない。小浜市もオバマ大統領との音の一致で注目されたが人口は三万以下である。湊町と言えば敦賀もあるがこちらは越前国で、小浜と敦賀を会わせて人口は一〇万程度である。そして若狭と敦賀と言えば、原発銀座である。
 話を戻すと、丹後郷土資料館だより第三号(2014、ネットで公開)には資料課吉野健一氏による「「北野社勧進状」について」が掲載されている。北野社が勧請されたのは丹後国府中であった与謝郡府中拝師郷内で、知行国主であった平重盛によって京都北野天神が永万元年に勧請されたとする。府中には小松殿と呼ばれた重盛にちなむ「小松」という地名が残されている。当該時期の丹後守については史料がなく、貴重な情報となりうる。重盛は応保三年正月に従三位となり、長寛三(永万元)年五月には参議に補任されているので丹後守ではありえず、丹後国を知行国として認められ、関係者を国守としていたのだろう。その長子維盛は七才で可能性はあるが、叙爵はその二年後であり、該当しない。
 「府中をよくする地域会議」によって「雪舟「天橋立図」を旅する」というサイトも立ち上げられているが、その中に「北野」として天神神社の説明がなされている。勧進状は天文五年二月のものであるが、その中で過去の由緒について述べられている。その中で「爾来至治承・寿永忠房・師盛郷(「卿」との注記があるが両者とも公卿にはなっていない)以下帰服」とあるが、忠房と師盛はいずれも重盛とその正室経子(家成の娘で、鹿ヶ谷の陰謀の首謀者とされた成親の同母妹とされる)の間に生まれた四番目と三番目の男子である。『玉葉』治承元年一一月一九日条に、兼実が職事良盛に「五節」の舞姫の装束を丹後五節所に送ったことと、「内大臣沙汰也」と述べていることから、この時点の知行国主は小松内大臣重盛であった。勧請はこの時期ではないかとの説も可能だが、勧進状の内容は信頼性が高いとすべきである。 

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