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2020年8月20日 (木)

延宝二年の洪水2

 それでも石見国邑智郡尾原家に残っていた「尾氏春秋」(現在では県立図書館の謄写本が頼りか)をみると、寛文一三年癸丑五月一四日に大水があり、その後、(京都大火後の九月二一日に)延宝元年に改元されたこと、一〇月一一日に大雪が降ったことが記されている(括弧内は当方が追加した情報)。世の人が丑の年の水といったそうなので、それなりの規模の洪水であった。池田正一郎『日本災変通史』によると、播磨から備後にかけての地域でも洪水があった。
 そして延宝二年五月二八日にも大水があり、前年よりも三尺高いところまで浸水したとする。六月二八日には出雲国で同断とあり、これが松江城下の浸水をもたらしたものである。八月一七日には備後と安芸も同断とある。『日本災変通史』によると六月初めには久留米で洪水があり、江戸・大坂も洪水とある。六月一一日には京都で雷鳴とともに雹が降ったという。
 別件ではあるが、県立図書館には貞享三年のものと推定される「出雲十郡図」がある。時期比定の根拠はわからないが(貞享四年開削の高瀬川がないためか)、貞享二年末の検地帳筆写の翌年であることが気になる。原家所蔵とあり、検索した範囲では三刀屋の原家と思われる。斐伊川北進路がなお二本描かれ、出東郡が出雲郡に変更され、美談や国富が楯縫郡に編入されている。ただし、西岸に斐伊川から分岐して日本海へつながる流路(西流路の復活)はまだなく、流路がある元禄一五年絵図に先行する貴重なものである。斐伊川東流(実際には西流路の消滅)だけが重要なテーマでないことを言いたいがための言及である。
 「最後にもうひとつ」とはドラマ相棒で杉原右京の定番の台詞であるが、正保四年の上鹿塚村と出来須村の検地帳を合冊したと称する史料がある。広大にもあるし、島根県立の旧県史の謄写本の中にもあるが、実際に中味をみると、上鹿塚と美談の検地帳である。

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