koewokiku(HPへ)

« 川跡神社の位置 | トップページ | 因幡国御家人佐治氏 »

2020年8月13日 (木)

中世塩冶郷の範囲

 塩冶郷と朝山郷の境界は入り組んでいるようであるが、近世の中野村は大津村から独立したことからすると中世の塩冶郷に含まれていたと思われる。中野村の西隣の朝倉村までが塩冶郷で、さらに西隣の今市村は朝山郷に属していた。現在の大津町が石塚村との土地の交換により成立したことからすると、大津町の北側にも石塚村分があった可能性が高い。森広家の本来の居住地「かけど」や雲根神社があった。一九世紀初め前後の地図には、斐伊川沿いの低地に「石塚村」との記載がみられる。また、一七世紀前半には並行して二本あった斐伊川北進路の内、西側が消滅したことにより、北島村分が北進路の西岸に存在したことも確認できる。東側の流路が生まれたことで減少した土地の見返りを求めたものであろう。一七世紀の中野村の検地帳は残っていないが、元禄一三年の大津村検地帳で慶安二年の検地帳から田数で六〇町以上減少したのは中野村が独立したからだとされる。ただし、現在の斐伊川沿いの地は北島村分であり、その西側が中心であったと思われる。中野村の対岸は大社領武志郷であるが、中野村に西北連なる杼島村、荻原村、高岡村は塩冶郷内であった。
 これとは別に、西部の園村と荒木村も中世塩冶郷に属していた。一見すると中心部の間に朝山郷が入り込んでいるようであるが、神戸川沿いの松枝村と下庄村は中世朝山郷に含まれないので、この二つの村が園村につながっていたことになる。斐伊川、神戸川という二大河川沿いが塩冶郷に含まれていたことになる。このことが、承久の乱後、朝山郷を関係庶子による継承を認め、塩冶郷を守護領とした理由であった。
付記:『出雲塩冶誌』近世編には斐伊川本流北側の稲岡村が中世塩冶郷内だとの記述があり、唖然としてしまう。これが担当者の能力なのであろう。

« 川跡神社の位置 | トップページ | 因幡国御家人佐治氏 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 川跡神社の位置 | トップページ | 因幡国御家人佐治氏 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ