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2020年8月20日 (木)

延宝二年の洪水1

 寛永一五年の松平氏入部以降の松江藩で収納高が最低であったのは享保の飢饉の最中の享保一七年で、本来の三分の一である一三万五千俵余であった。これは九州で発生したウンカが畿内まで広がったことによるものであった。これに対して二番目が延宝二年で、二二万二千俵である。同七年まで松江藩では独自の桝(江戸桝とも違うか)を採用していたが、幕府が八年から全国的に京枡に統一している。延宝二年は独自桝だと二〇万俵と、実際の数字を切りの良い数字に改めたかの数字である。独自桝は京枡より一割大きかったことになる。
 この飢饉については、原典を確認していないが、「洪水、洗合土手決壊、松江浸水8~9尺、漂家1450戸、害穀74230石、堤防等崩壊90823歩、溺死229人」と記されている(『絵図の世界』P116、出典は『松江市誌』とある)。ただし、元禄一五年は八月末~閏八月初の大風雨で害穀84249石、堤防被害80000歩とある。その年の収納高は二六万俵余と延宝二年よりは多い。
 出雲国西部の検地帳をみていて気になったのが、延宝二年の水害で庄屋宅ないしは郷蔵に保管されていた検地帳が水に浸かって判読不能になったことと、貞享二年末に松江藩が保管していた検地帳を写して与えていることである。現在の出雲市について「広大所蔵検地帳」の目録でざっと確認したところ二八例であった(正確には貞享二年末に写された検地帳の数で、現物を確認したものは一〇に満たないが、すべて該当した)。松江地域についても本日目録で確認するが、出雲国全体での洪水の発生であったことは確実である。
 ところがこの洪水について、新たに作成された『松江市史』近世編からは何の情報も得られなかった。すべては関係者の専門分野があまりにも偏っていたためであろう。近世の古文書に精通していても、現地の様々な情報をもっていないと、正しい分析はできない。前にも述べたが地誌的要素が全くなく、松江市在住でこれを利用できる人はほとんどない。投入された費用に見合う価値がないのである。当方には利用可能だと思われる部分があるので、中世を含めて解説していきたいが、‥‥。以上はとりあえずざっとながめた時点での暫定的評価なので、今後少しずつ精読したい。近世史は前半の史料は検地帳等が中心であるがゆえに、それを有効に活用する方法を見つけなければならない。自分の専門分野に閉じこもり自己満足に浸っている人にはそれは不可能であるが。

 

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