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2020年8月31日 (月)

寛永年間の洪水

 昨日のところで本日〆切の原稿をメールで提出した。みる度に誤植や原典史料や典拠する論文の表記の体裁の不一致に気付くが、きりがないので、後は校正で修正することとした。これまでならば、紙だししてチェックしたが、今回は初めてパソコンモニターの表示画面でのチェックのみであった。与えられた二〇頁に対して地図や表を含めると五〇頁になったので、最後は削る作業が中心となった。
 これまであまり使用されていない神社の由緒書を利用した。明治三五年(1902)に県庁内務部(現在の総務部)寺社係に提出されたものであるが、他の史料と併せて検討すれば有効な資料となる。ただし、それらの原本を調査・掲載した自治体史がないので、ダイジェスト版である県庁提出分に頼らざるをえない。本来なら廃棄されていたかもしれないが、数奇な運命をたどって現在は県立図書館が所蔵している。前述のように寺社宝物調べとともにこれまで歴史研究で使用されたことのない中世の棟札が大量に確認でき、『松江市史』でも活用された。近世編でも十分活用できるのだが、そちらは文書が多いので、検地帳と伴にスルーされている。
 由緒書の中で刊行開始直後の吉田東伍氏『大日本地名辞書』(1900年)が引用されていたのには驚いた。当時の神社関係者の知識の豊富さを物語るものだろう。ということで国会デジタルで地名辞書を閲覧したところ、前田秀實「出雲北部沖積的平野の変遷」(「地学雑誌」7巻2号の雑録、1895年)に基づき一二年の洪水で初めて東に折れ七筋になり宍道湖に入ったことを述べている。次いで地学雑誌で当該雑録を閲覧したところ、その論拠となったのは天明年間の遠江国内山直龍撰『出雲風土記解』(寛永一〇年頃とする、東京国立博物館本)、天保年間の渡部彝『出雲稽古知今図説』(寛永一二年とする、島根県立図書館本)であった。
 そこで寛永一〇頃の洪水と寛永一二年の洪水が挙げられていた。提出したものには吉田氏の辞書の名前も、前田氏の雑録も省略せざるを得なかったが、なぜか「寛永一〇年頃」と「寛永一二年」の後に、意味不明の「成立」という語が入っていた。現在元原稿と提出原稿を見比べて書いているが、何故としかいいようがない。『島根県史』が述べる寛永一六年の洪水など一言も触れていない。実際、寛永一五年に松平氏が入部していらいの収納高は記録があり、寛永一六年に大規模な洪水が起きた痕跡は全くといっていいほど感じられない。あとは一〇年と一二年の関係であるが、由緒書をみる限り一二年の被害を述べていた事例が多数であったが、一例だけ両方の被害を触れていた。ということでその場所を勘案して、一二年が大規模で、一〇年は斐伊川というより北部の高浜川沿いでの洪水ではないかとした。ただし、貞享四年(検地帳が写されたのは二年末)に平田町の小村氏が記した記録の事を失念していたので確認すると、堀尾忠晴が死亡する四ヵ月前の寛永一〇年五月に洪水があったことと、洪水対策を行っていた京極忠高が寛永一四年六月一二日に他界した事が書かれていた。貞享三年にも平田で洪水があり、翌年に土手が整備された。
 一〇年の洪水の方も大きいのではと一瞬思ったが、やはり発生したのは斐伊川本流北部である。高浜川流域のみではないが、簸川平野北部である。これに対して寛永一二年の洪水は斐伊川西岸の簸川平野南部と北部の両方で確認されており、こちらが規模が大きい。理屈をこねれば、南部で決壊が起こると、北部まで流れる水量は減少し、洪水の可能性は下がる。それにもかかわらず一二年には北部でも決壊している。一〇年は南部で決壊しなかったので北部まで大量の水が流れ、決壊したものである。当然、斐伊川上流での雨量の多さとともに簸川平野での降水量にも関係してくる。校正で若干の表現の修正は必要だが、一二年の洪水が天正元年の洪水とならぶ大きな洪水であったことは間違いない。

 

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