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2020年8月20日 (木)

多祢氏と六波羅奉行人関氏

 建久年間の朝山郷司(庁事)惟元の父守安の兄弟で多祢郷司(庁事)資元の曾孫頼重は在国司昌綱と同世代の人物であるが、関蔵人入道娘との間に十郎昌頼が生まれている。西田友広氏が森幸夫氏の研究に依拠しつつ六波羅探題奉行人の一族と婚姻関係を結んだことを述べている(『松江市史』通史編中世)のは従うべき見解である。森氏は、明確な根拠はないとして消極的ではあるが、「奉行人関氏は苗字の地は不明ながら、朝廷の下級官人清原氏の流れを汲む一族と考えておく」と述べたが、その他の関氏として伊勢国鈴鹿関を根拠とする桓武平氏関氏や常陸国新治郡関を本拠とした秀郷流藤原氏の関氏をあげている。
 後者の関氏は『吾妻鏡』に左衛門尉政綱(左衛門入道も同一人物か)、左衛門尉政泰(その子か)がみえるが、政泰が宝治合戦で三浦泰村方となり没落している。前者の関氏は左近大夫将監實忠がみえ、北条泰時の被官だとする。六波羅奉行人関氏は正応五年に在職が確認できる頼成が初見である。頼成は関蔵人と記される一方で関左(右ヵ)近大夫(延慶元年~正和五年)とみえる。また関右近蔵人良成(元応元年)もみえることから、北条氏被官であった関氏の一族が六波羅奉行人となったと考えられる。
 宝治二年大社遷宮には頼重とともに子頼盛がみえるが、頼重は文永八年(1271)に、頼盛は父に先立ち文永三年に死亡している。また昌頼は昌綱の娘を妻として子辰若丸が産まれている。昌綱は文永四年に京都で死亡しており、在京人でもあった。また昌綱の弟三郎兵衛入道長綱も宝治二年遷宮で在国司右衛門尉昌綱の代官を務めているが、その子兵衛六郎良綱は弘安八年(1281)一一月一七日合戦(霜月騒動)で御方(北条貞時、内管領平頼綱方)として討ち死にしている。前述の六波羅奉行人関右近蔵人良成の存在をふまえると、良綱の母も関氏一族である可能性が大きい。この記事の元となるデータは全面的に森氏『六波羅探題の研究』に依拠している。

 

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コメント

お久しぶりで、ございます。気になるところがあるのでコメントします。
[奉行人(清原姓)関氏は苗字の地は不明]とありますが、系図簒要の清原系図に、よりますと。
[清原近業ー業長(関大夫 住美作)ー業綱ー久業ー盛久(引付間注所 法名道白)]とあります。
よって、その名字の地、関は、真庭市関の可能性がつよく。また、盛久は、関清左衛門入道道日と同一人物か近親者と考えられます。
室町奉行人関氏と、鎌倉奉行人の関氏は、同流と思っていましたが別流とするのが有力な説なのでしょうか。

鎌倉幕府の官僚が室町幕府の官僚となっていくケースが多い。それに基づき、森氏も述べられたと思いますが、関係史料をみる限りの判断です。主に官職の共通性から平姓としました。鎌倉幕府清原氏の一族が美作国関を得て関氏と名乗ったのでしょう(いつから名乗るのかという問題はあります)。石見国佐波氏は三善氏の一族が佐波郷を得て苗字としたものです。南北朝初期から佐波氏であることが確認できます。
 とりあえずご指摘の系図に登場する人物と鎌倉幕府奉行人関氏の間に名前の共通性はありません。ただし、父系と母系を組み合わせて系図を作成することもあり、森氏の説も根拠はあります。今回は多祢氏、朝山氏と得宗との関係に力点がありました。佐々布氏も得宗家臣となっています。

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