koewokiku(HPへ)

« PCR検査件数 | トップページ | 中世塩冶郷の範囲 »

2020年8月12日 (水)

川跡神社の位置

 川跡神社の位置をようやく確認した。電鉄川跡駅のそばだと思い込み、現在の斐伊川本流が十七世紀まではより西側を流れていたことにちなむ神社だと思っていたがさにあらず。明治二二年(一八八九)の市町村制施行で近世の六ヶ村が合併して川跡村が誕生し、大正四年(一九一五)に大正天皇即位を記念して村内の神社を統合して川跡神社が生まれた。それに先行して明治八年(一八七五)には荻原村と杤(杼)島村が合併して荻杼村が誕生していた。神社統合の原因は高岡八幡宮を除きその維持が困難となっていたためだが、選ばれたのは全体の中央に位置する荻原八幡宮の地であった。現在の川跡コミュニティセンターもその近くにある。現在の出雲市の大字は川跡村成立前の五ヶ村に基づくようである。
 出雲市については土地勘がなかったが、「川跡」については電鉄を利用したことで認識していた。母親が平田市平田の出身であり、その実家から大社に行く機会が何度かあったため、「かわと」の音が頭に残ったと思われる。何も知らなければ一から調べるが、中途半端に知っていると誤解の原因となる。今回はこの点を痛感した。現在の荻杼町と武志町の境界線はとても川の流れとは一致しないので、川跡神社の地点から南東方向に流れて武志町と中野町の境界に至っていたと思われる。
 高岡八幡宮の位置がどこかを確認したかったが、『郷土誌川跡』に写真とともに掲載されている地図をみても、現在の状況と違いが大きく、住宅地図で照合できず、確認できなかった。高岡八幡宮の中世文書を伝えた永田家は八幡宮神主の関係者だと思うが、旧島根県史の段階ですでに松江市在住であった。現在の住人には比定可能な人もいようが、あと一世代すぎると、地元の人にもわからなくなるのではないか。六ヶ村の神社が所在した場所はそれそれに理由があって選ばれた場所であり、今のうちにその場所を地図の上に落としておいたほうがよい。『風土記』の神社だと根拠もなく比定して地図上におとしてあるが、もっと地に足を付けた作業が必要である。
 公民館、コミュニティセンターによっては地図を作成し公開している例もあるが、川跡の場合はHPや広報誌をみたかぎり、そのような作業はなされていないようだ。四絡の場合は「昔を知ろう」「歴史まち歩きマップ」がある。その内容には課題があるが(例えば、建武二年一二月三日尼覚日譲状にみえる「やの々むら」が四絡の矢野村とされているが、そう思う人はお目出度いとしか言いようがない。この矢野村は朝山郷内である。天保郷帳に「杵築矢野村」(修理免、北荒木、中荒木)とあるので、修理免を指しているとすべきである)、とりあえずはある。昨年講演に訪れた松江市の本庄公民館のHPは充実していた。
 話を戻すと、現在の川跡神社は中世の斐伊川本流(北西路)の南側河岸段丘上に位置しており、その意味では間違いなく旧斐伊川本流にちなむものであった。
補足:過去の「大湊について」で「やの」は菱根村内の地名との説を紹介しているが、これが修理免を含む六ヶ村に分かれている。

« PCR検査件数 | トップページ | 中世塩冶郷の範囲 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« PCR検査件数 | トップページ | 中世塩冶郷の範囲 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ