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2020年8月 4日 (火)

平重盛と藤原成親2

 平重盛は鹿ヶ谷の陰謀で配流殺害された後白河院の寵臣藤原成親の同母妹経子を正室としていた。重盛の長男維盛は経子所生の清経以下の異母兄であるが、成親と藤原俊成の娘後白河院京極局との間に生まれた建春門院女房新大納言を正室としている。また俊成の娘八条院坊門局との間に生まれたのが、いち早く頼朝と結んだ公佐であった。公佐は幼少時に成親が死亡したため三条公教の子実国の養子になったが、実国の正室は家成の娘で、成親の姉妹であった。同母であったため、養子となったのだろう。公佐の同母姉妹には、持明院基家の嫡子基宗の室となり、後堀河天皇の乳母となった成子と、重盛と経子の間の長男(二人の異母兄がいるので三男)清経の室となった女性がいる。以上の関係をつないだのは藤原俊成であった。
 成親の同母弟盛頼は鹿ヶ谷の陰謀で尾張守(成親が知行国主)を解官されたが、幕府成立後、頼朝から過去の行為への代償として所領を与えられた(服部英雄「鹿ヶ谷事件と源頼朝」)。同様に尾張国目代であった平康頼は、成親の嫡子成経とともに薩摩国鬼界ヶ島に配流されたが、翌年には成経の正室の父平教盛の働きかけもあって赦免され、都に戻った。康頼もまた頼朝から阿波国麻殖保の保司に補任された。成経の正室は教盛と日野資憲の娘の間に生まれている。成経は官界に復帰し、蔵人頭を経て建久元年(一一九〇)には参議となり、建久五年には皇太后(忻子)宮大夫に補任された。忻子は德大寺家二代目公能と藤原俊忠の娘豪子との間に生まれている。豪子は忻子の生年(一一三四年)からして俊成(一一一四年生)と年齢の近い同母妹であろう。成経自身の母は藤原親隆の娘である。親隆は勧修寺流為房の晩年の子で、母讃岐宣旨は藤原忠通の乳母である。彼女の母は不明であるが、その兄弟はいずれも待賢門院乳母但馬が母で、信朝は女院御願寺法金剛院権上座となり、増仁は父隆尊と同様、法成寺上座執行となり、崇德天皇の御願寺成勝寺に出雲国飯石社など三箇所を寄進している。親隆と二才上の同母兄朝隆が、鳥羽院近臣であるだけでなく、女院並びに摂関家とも深い関係を有していた。
成親には「兵衛督成家室」となった娘がいたが、該当者はいない。『尊卑分脈』一本(編纂所データベース『史料綜覧』の元史料)には「兵衛佐盛定ヵ」としているが、藤原俊成と美福門院加賀の間に生まれた長男成家で、「兵部卿」を誤ったものである。
 本ブログでは待賢門院・崇德流の人々に注目し、そのつながりの元となったのは勧修寺流為房の子で夜の関白と呼ばれた藤原顕隆と藤原俊成の父俊忠であることを述べて来たが、平重盛と藤原成親は俊忠の子孫と深い関わりがあった。俊忠の長男忠成の嫡子が藤原光能であり、忠成の娘は德大寺公能、以仁王、持明院基宗の室ないしは妾となっていた。

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