koewokiku(HPへ)

« 平重盛と藤原成親2 | トップページ | 八月前半の近況 »

2020年8月 8日 (土)

古湊分検地帳

 旧島根県史編纂時には各村役場が保管していた検地帳の調査がされているが、現在のようにデジタルカメラで手間いらずに安価に記録ができないので、請作者が特別なものと最後の集計部分のみを筆写した抄本となっている。現在残っていないものもあり貴重である。一方、広島大学図書館に広島国税局から移管された検地帳が残っているが、これは藩から明治政府へと移管されたものである。前者は庄屋のもとに残されたもので、後者は藩に提出されたものである。あえて比較すると、後者には年次の古い検地帳が含まれるのに対して、前者は年次が相対的に新しい。新たな検地帳が作成されれば、特別の場合を除いて、過去のものを廃棄したのだろう。後者の中には本来の年次よりかなり時間が経過した時点で、村が藩から写したことを示す記述があるものもある。その場合にも、藩にも写しを残したのであろう。
 県立図書館には元禄一一年矢野村御検地帳と同年矢野村之内古湊分御検地帳の抄本があるが、前者にのみ個別の田畑が写されており、後者は集計部分だけである。ただし、前者の田数に後者の田数が含まれており、重複をさけたのかもしれない。広島大学所蔵分には含まれないが、『四絡郷土誌』(一九八六)によると地元に残っているようなので、連絡をして一五年(以上)ぶりに訪問した。以前は公民館だったが、現在はコミュニティセンターで建物も新しくなっていた。ただし、センターでは保管していないとのことで、「古湊」がどこかもわからないとのことであった。検地帳については永田滋史氏『出雲市地名考』(一九八八)にも写真が掲載されていたが、そこには「出雲市立図書館・収蔵」とあったので、昨日朝に問い合わせて調べてもらうと、保管しておりマイクロフィルムなら閲覧可能とのことだったので、昼から出かけて閲覧した。
 写真では検地帳は一冊であったので、合冊されていると思ったら、古湊分は独立したものではなく、一筆毎の字に「同所古湊分」とあり、最後の集計でも等級毎に田数を記す中に「古湊分」の田数が内数で記されていた。旧県史はこれを独立して抜き出したものであった。古湊分は村全体の田数の五分一強を占めているが、特定の字ではなく、四分三程度の字に「古湊分」が含まれており、「古湊」の所在を確認する材料を得るとのもくろみははずれてしまった。古湊分の等級分布は村全体の分布と同様の比率である。「請作者」は三人いるが、そのほどんどは「六郎右衛門」とあった。一人で村の五分一以上の田を請作していることになる。但し、畑は五〇分の一程度と少ない。
 「古湊分」とは旧古湊在住者が請作するものであったが、それにしても田数が多いのみならず、広範囲に分布している。古湊が都市であった時点の年寄ないしは目代の家であったのだろうか。ただし、屋敷帳の部分には「六郎右衛門」はみえず、村の外に居住しているのだろう。このようなケースは外にもあっただろうが、それがこのような形で残っているケースはない。慶安二年の矢野村検地帳は二〇町弱分のみ残っているが、集計部分がないため、全体の田数は不明である。元禄一一年の田数は四三町余であり、これに近い田数であったと思われる。ただし、慶安二年の検地帳には「古湊分」という注記はなく、とりあえず、請作者の名前を再確認し、「六郎右衛門」の先祖にあたる人物がいないか考えたい(確認したが、一人で大量の請作をしている人はいない)。

 

« 平重盛と藤原成親2 | トップページ | 八月前半の近況 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 平重盛と藤原成親2 | トップページ | 八月前半の近況 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ