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2020年8月14日 (金)

因幡国御家人佐治氏

 佐治氏については森幸夫氏「探題執事佐治重家の活動」(同『中世の武家官僚と奉行人』、2015)がある。重家関係史料を除けば関係文書は弁官補任紙背文書四通(国立歴博所蔵)のみである。当然新『鳥取県史』にも収録されている。写でもあり、佐治氏が伝えたものではなかろう。①七月三〇日関東御教書以外の年月日のない二通②③は判決が出された建暦三年一一月三〇日関東下知状④を承けて出されたものであり、七月三〇日の文書も建暦三年のものであろう。
 ここで問題とするのは、四〇才代であった佐治四郎重貞がなぜ鎌倉にいて、五月三日の和田義盛の乱で勲功を上げたのかである。森氏は訴訟のため鎌倉を訪れていた重貞が、勃発した乱に際し、裁判を有利にするため北条氏方として奮戦したとしているが、そのような事があるだろうか。因幡国御家人では長田氏が頼朝への過去の行為により平家方であったにもかかわらず所領を安堵され、その後幕府の奉行人となったことが知られている。因幡国御家人と幕府の関係を考えるためには、因幡守護と因幡守の問題が不可欠であるが、守護については知行国主源通親のもとで大江広元が国守となったが、広元の嫡子親広は通親の猶子となっていた。その後の守護は不明である。
 以前、通親の死後、葉室宗嗣が国守となっており、国主も葉室氏と考えたが、通親の子で因幡国知行国主となった久我通光は葉室宗頼の娘を室としており、宗嗣は宗頼の子宗方の子で、養父となった宗行は藤原行隆の子から宗頼の養子となっている。通親の死後、続けて子通光が因幡国知行国主となったのだろう。
 以上を踏まえると、佐治「道」貞の名前が注目される。音は同じでも字が違うという人は中世史の研究はやめた方がよい(現実にはやめた方がよい人が多数派なので困ったことだ)。道貞の子重貞の舎兄の名は④では「安貞」、②(鳥取県史の66号、③は67号である)では「康貞」とある。中世史料ではままあることで写し間違いの可能性は低い。長田実経が因幡守大江広元のもとで広経と改名し、その子で引付衆となったのは広雅であった。通親の子で石見国知行国主となった定通は北条義時の娘を妻としていた。通親のもとで因幡守をつとめた子通方の子顕方は定通の養子となり、何度も幕府の行事に参加している関東祗候の公家であった。
 この様な中で、道貞が広経と同様、御家人であるだけでなく、幕府との関係を強めていた人物であった可能性は大である。また①では重貞の訴えを受けた幕府は、事情を熟知した因幡国で両方を召して報告させ、その状に基づき判決を下すとしている。森氏の言うように、裁判のため鎌倉にいたのではなく、重貞は鎌倉で居住していたのではないか。それゆえに森氏が重貞の子と推定する重家が北条重時の側近になった。幕府が成立して間もない頃に道貞が子重貞への譲状を作成したが、なお重貞が幼少(一〇才前後)であった。舎兄曳田康貞が重貞が成人するまで自らが預かると申し出て認められたが、一向に譲ることなく、実子重久に譲ったので、重貞が訴えたのだろう。佐治の地名は鳥取市佐治町としてその南部に残っているが、曳田という地名は旧佐治村の北側にあった河原町曳田として残っている。河原村が一九二六年の町制施行により町となり、戦後は周辺四ヶ村を合併したが、二〇〇四年に佐治村とともに鳥取市に編入された。
追記:出雲守藤原長貞が鎌倉にいて、義盛の乱で勲功を上げたことは前に述べた。

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