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2020年8月31日 (月)

堀尾氏の構想

 問題は斐伊川東流ではなく、西流路の消滅であることはすでに述べたが、西流路を消滅させることにより堀尾氏の統治にプラスが多いと考えたのであろう。
 一つは宍道湖ならびに大橋川の水量が増大することにより松江城の要害としての機能が高まるということである。もう一つは西流路の消滅により宍道湖の塩分濃度が低下することである。現在は、洪水の多発から西流路が再び整備されたため、宍道湖に流入する水量がピークの一七世紀半ばまでより減少し、真水と塩水がまざりあう汽水湖であるが、さらに塩分濃度が低いと、飲料水や農業用水としての活用が容易となる。
 問題としては天正元年の洪水にみられるように、従来の経験を遙かに超える大洪水が発生していたことである。それまでは洪水はあるが、時間が経てば水は引いて、生活と生産が回復したが、住居を流し去る規模の洪水が発生した。その原因は斐伊川上流部で行われていた鉄穴流しの隆盛であった。これに対処しないと、砂で川や湖が埋まり、松江城の要害としての機能も低下する。また、簸川平野や城下町松江でも洪水の危険性は増大していた。人々の住居は洪水の影響を受けにくい高台に移転したが、耕地はそういうわけにはいかない。ということで対策のための河川改修が営まれていった。
 上流部の鑪関係者は対策の終わりを今か今かと待っているだけではなく、鉄穴流しの効用を主張し、禁止の解除を求めた。その日は唐突に来た。藩主が京極氏に交替したこと以上に、豊臣氏の滅亡により元和偃武となり、松江城の要害としての機能への期待値が下がり、領国経済の中心地である城下町としての機能が重視されたのである。しかし、解除してみれば鉄穴流しにより堤防が高くなる天井川化が進み、斐伊川本流の川幅を広げたために水は容易に簸川平野北部に達し、しばしばそこで堤防を破って決壊したのである。いまさら鉄穴流しの再禁止もできず、いたちごっこのように、洪水が発生し、それを防ぐための治水工事が続いていった。こうした中で西流路も新たに開削された。それは現在にいたるまで続いている(この問題は中世史の課題としてとらえている)。
 川の流路変更といえば、西部の益田川と高津川の問題や、寛文六年の洪水で旧城下町が河床となり流路が変わった富田(飯梨)川の事例もあるが、今回調べて、斐伊川の場合、天正元年の洪水で流路が変わって以降は政治権力が新たな流路を開削したり、それまでの流路を埋めたりしたことが中心であった。

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