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2020年8月 2日 (日)

丹後国北野社について3

 天橋立図のサイトには平家と府中のつながりは清盛の祖父正盛以来であるとするが、これは機械的で根拠なき文である。源義親の乱平定により正盛は在任一年余りの因幡守から但馬守に栄転したとされるが、在任三年弱で天永元年末に丹後守に遷任している。これは正盛が隠岐守に補任されたことと、平家滅亡時に隠岐国に平家領があったことを結びつける論と同レベルの論である。なお、因幡守も院近臣が補任されることが一般的であった。正盛が若狭守から因幡守に遷任していることからも、その重要性がわかる。
 重盛の母は高階基章の娘であるが、基章は源家実の子から、母の兄弟為章の養子となっている。為章の子には待賢門院女房遠江内侍がおり、その兄弟宗章の子には待賢門院加賀がいた。重盛の妻経子の父経忠は待賢門院璋子の同母姉実子を妻とし、経忠の長男から四男までの母は実子である。三男信輔の場合、長男信隆の生年からして経子の父家成と同世代と考えられ、経子の母もまた実子である可能性が高い。経子の異母兄隆季(母は高階宗章の娘)が待賢門院との関係が深いことはすでに述べたが、成親、経子もまた待賢門院流に属していた。それを踏まえれば、成親の遺児公佐が、一条能保、平頼盛らとともに、いち早く鎌倉の源頼朝と連絡を取ったことも理解できる。なお、重盛の長子維盛は成親の娘を正室としている。
 重盛の二男で、後には嫡子となった資盛は、経子を母とする四人兄弟の異母兄であるが、重盛の子では唯一公卿にまで進んでいる。歌人で平徳子に仕えた建礼門院右京大夫との関係が有名だが、その正室は持明院基家の娘であった。基家は通基と上西門院(待賢門院娘)因幡との間に生まれたが、同母兄通親と通重が早世したため、祖父基頼と父通基が整備した持仏堂持明院を継承した。通重と德大寺公能の娘との間に生まれたのが一条能保で、父の早世でその昇進は遅れたが、妻坊門姫の同母兄頼朝が幕府を開いたことで、一転して栄進し、従二位権中納言まで出世した。重盛の持つ背景により上西門院分国能登の国守をつとめる基家の娘を資盛が正室としたのではないか。ただし通説では基家の子基宗が仁安元年に加賀守に補任されたのが上西門院分国の初見とされるが、当ブログでは通重が能登守であった際に待賢門院分国が娘統子内親王の分国に移行したとの説を提示している。この通重が国守であった時期に能登国では院と摂関家によって次々と巨大な庄園が立券された(石井氏が鳥羽院政期の事例とされた庄園は一例以外は通重の時代の成立)。
 以上、丹後国北野社勧進状から分かることを述べた。院政期と南北朝期の両方に通じている中世史研究者はいないが、地域史を研究していれば、両方について断片的ではあるが情報を持っていることがあり、つなげてみた。サスペンスではその後半で主人公が「これですべてつながった」とつぶやくのが通例である。これはフィクションでの話で、ノンフィクションではほとんどありえないが、ごく希にこういうことが起こる。

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