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2020年8月 4日 (火)

平重盛と藤原成親1

 不十分な点があったので補足・修正する。
 永万元年(一一六五)時点の丹後守の情報は無いとしたが、五味文彦氏『平清盛』には、同年六月二四日に平季盛が丹後守に補任されているが、これは丹後国を清盛が重盛に譲ったものだとの記述がある。季盛については『国司一覧』に仁安二年(一一六七)正月四日時点で丹後守に見任していたことが記されている。これは一九日に後白河院が法住寺新造御所に移徒する際の役割を定めたもので、殿上人の饗を担当したのが丹後守季盛であった。一九日に実際に勤めたのは丹波守藤原惟頼であったが、交替の理由は記されていない(当方は誤りとみて重視せず)。一方、永万元年六月二四日には丹後と伊予で国替があった(『顕広王記』)。伊予国はそれまで藤原能盛を国守とする平清盛の知行国であったが、丹波守であった藤原資頼が遷任してきた。ところが在任一月にも満たない七月一八日には越中守に遷任している。そのため、「丹後」は「丹波」の誤りとも考えたが、意味が違ったことになる。丹後国では国守藤原季能(知行国主は父俊盛)が長寛元年(一一六三)正月二四日に讃岐守に遷任しているが、その後任某については不明である。この某に代わって季盛が平氏知行国の国守になったと五味氏は考えたでのあろう。平季盛とは伊勢平氏庶流で保延三年一一月に伊勢神宮の神官に訴えられ、佐渡に入るされた人物であろう。その後、康治二年閏二月三日には「前主殿助平季盛」の召喚が決定された(野口実「院政期における伊勢平氏庶流(補遺))。
 この季盛と但馬国温泉郷竹田寺木村を伝領していた平季盛は同一人物であろう。康治元年(一二四二)頃には郷司や百姓が妨げをなすため、国司に訴え、證判を得たという。実際にはそれに先立つ保延五年(一一三九)には子季広に譲られていた。季盛が佐渡に配流されていたためであろう。またそれゆえ、周辺からの干渉があった。次いで季広が所領を聖顕に寄進し、長寛三年六月には但馬守藤原親弘(美福門院の乳母父親忠の子)が、聖顕から蓮華王院への寄進を認めている。長寛三年は二条天皇が病気となったため、六月五日に永万元年に改元され、二五日には生後半年の六条天皇が即位したが、七月二八日に二条院は二三才で病没した。丹後国知行国主となった重盛が府中に北野天満宮を勧請して北野社を創建したのはこの年であった。治承二年正月二八日に丹後守は平経盛の長男経正に交替したが、治承三年一月六日の東宮五〇日の儀式では女房衝重二〇前を内大臣が知行する丹後国の国守平経正が分担しており、依然として重盛の知行国であった。安元二年(一一七六)二月から三月にかけて重盛の子師盛の丹後守見任が確認できるが、治承二年(一一七七)正月二八日には経盛の知行国若狭の国守に遷任している。知行国主はそのままで、国守の相博が行われたことになる。

 

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