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2020年8月 2日 (日)

丹後国北野社について2

 当方が注目したのは以上の点とともに、応安の頃に中興造営・遷宮を行った「当国刺史土佐前司沙弥道政」である。「刺史」とは中国の地方監察官で、唐代には州の長官であったようだが、ずばり丹後守護山名師義の守護代土屋(大葦)土佐守であろう。貞治三年一〇月一五日山名氏奉行人下知状(堀口家文書)に「先年土屋土州遵行」とみえる。先年とは時氏が南朝方守護であった時期、ないしは観応元年まで幕府方守護であった時期であろう。師義の死後、嫡子義幸が守護を継承したがその時期の守護代も土屋氏であった。その後、義幸が病弱であったため一時的に弟満幸が守護となるが、至徳二年七月一八日丹後守護山名満幸施行状では、幕府御教書に任せて下地を打渡すよう「□〔土〕屋土佐守」に命じている(丹後郷土資料館所蔵文書)。
 ではなぜ大葦(土屋)土佐前司入道は退転して久しい北野社の造営・遷宮を行ったのだろうか。山名師義の守護代として府中の神社の整備を行ったという意味もあろうが、それ以上に苗字の地である出雲国島根郡大葦(北野末社)との関係であろう。鎌倉時代の土屋氏一族は大葦を取り囲む形で存在した蓮華王院領加賀庄の地頭で、北野末社地頭は東国御家人香木氏であった。それが後醍醐による隠岐脱出から倒幕までの貢献で土屋氏一族で大葦を与えられた人物が大葦氏を名乗った。大葦氏は丹後国内にも所領を与えられており、その庶子が幕府方であった山名氏の家臣となり、反幕府方となった時期の山名氏を支え、復帰した後も重臣であり続けた(垣屋氏もその末裔)。
 平重盛が北野社を勧請したのは蓮華王院完成の翌年であった。蓮華王院領加賀庄の成立はこの前後であり、北野末社はそれに先行して成立した。そうでなければ加賀庄内となったはずである。そして大葦の寄進者として考えられるのは待賢門院庁の中心であった持明院通基である。通基の父基頼は能登守であった元永元年一〇月に菅原保を京都北野天神に寄進している。通基自身は山陰道では因幡守、丹波守を歴任し、出雲守には補任されていないが、出雲国は二期八年にわたり、待賢門院分国となり、幼少時から女院に仕えていた源光隆が国守であった。出雲守の経験のない日野資憲が揖屋社を崇德院御願寺成勝寺に寄進できたケースと同じである。

 

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