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2020年8月

2020年8月31日 (月)

寛永年間の洪水

 昨日のところで本日〆切の原稿をメールで提出した。みる度に誤植や原典史料や典拠する論文の表記の体裁の不一致に気付くが、きりがないので、後は校正で修正することとした。これまでならば、紙だししてチェックしたが、今回は初めてパソコンモニターの表示画面でのチェックのみであった。与えられた二〇頁に対して地図や表を含めると五〇頁になったので、最後は削る作業が中心となった。
 これまであまり使用されていない神社の由緒書を利用した。明治三五年(1902)に県庁内務部(現在の総務部)寺社係に提出されたものであるが、他の史料と併せて検討すれば有効な資料となる。ただし、それらの原本を調査・掲載した自治体史がないので、ダイジェスト版である県庁提出分に頼らざるをえない。本来なら廃棄されていたかもしれないが、数奇な運命をたどって現在は県立図書館が所蔵している。前述のように寺社宝物調べとともにこれまで歴史研究で使用されたことのない中世の棟札が大量に確認でき、『松江市史』でも活用された。近世編でも十分活用できるのだが、そちらは文書が多いので、検地帳と伴にスルーされている。
 由緒書の中で刊行開始直後の吉田東伍氏『大日本地名辞書』(1900年)が引用されていたのには驚いた。当時の神社関係者の知識の豊富さを物語るものだろう。ということで国会デジタルで地名辞書を閲覧したところ、前田秀實「出雲北部沖積的平野の変遷」(「地学雑誌」7巻2号の雑録、1895年)に基づき一二年の洪水で初めて東に折れ七筋になり宍道湖に入ったことを述べている。次いで地学雑誌で当該雑録を閲覧したところ、その論拠となったのは天明年間の遠江国内山直龍撰『出雲風土記解』(寛永一〇年頃とする、東京国立博物館本)、天保年間の渡部彝『出雲稽古知今図説』(寛永一二年とする、島根県立図書館本)であった。
 そこで寛永一〇頃の洪水と寛永一二年の洪水が挙げられていた。提出したものには吉田氏の辞書の名前も、前田氏の雑録も省略せざるを得なかったが、なぜか「寛永一〇年頃」と「寛永一二年」の後に、意味不明の「成立」という語が入っていた。現在元原稿と提出原稿を見比べて書いているが、何故としかいいようがない。『島根県史』が述べる寛永一六年の洪水など一言も触れていない。実際、寛永一五年に松平氏が入部していらいの収納高は記録があり、寛永一六年に大規模な洪水が起きた痕跡は全くといっていいほど感じられない。あとは一〇年と一二年の関係であるが、由緒書をみる限り一二年の被害を述べていた事例が多数であったが、一例だけ両方の被害を触れていた。ということでその場所を勘案して、一二年が大規模で、一〇年は斐伊川というより北部の高浜川沿いでの洪水ではないかとした。ただし、貞享四年(検地帳が写されたのは二年末)に平田町の小村氏が記した記録の事を失念していたので確認すると、堀尾忠晴が死亡する四ヵ月前の寛永一〇年五月に洪水があったことと、洪水対策を行っていた京極忠高が寛永一四年六月一二日に他界した事が書かれていた。貞享三年にも平田で洪水があり、翌年に土手が整備された。
 一〇年の洪水の方も大きいのではと一瞬思ったが、やはり発生したのは斐伊川本流北部である。高浜川流域のみではないが、簸川平野北部である。これに対して寛永一二年の洪水は斐伊川西岸の簸川平野南部と北部の両方で確認されており、こちらが規模が大きい。理屈をこねれば、南部で決壊が起こると、北部まで流れる水量は減少し、洪水の可能性は下がる。それにもかかわらず一二年には北部でも決壊している。一〇年は南部で決壊しなかったので北部まで大量の水が流れ、決壊したものである。当然、斐伊川上流での雨量の多さとともに簸川平野での降水量にも関係してくる。校正で若干の表現の修正は必要だが、一二年の洪水が天正元年の洪水とならぶ大きな洪水であったことは間違いない。

 

堀尾氏の構想

 問題は斐伊川東流ではなく、西流路の消滅であることはすでに述べたが、西流路を消滅させることにより堀尾氏の統治にプラスが多いと考えたのであろう。
 一つは宍道湖ならびに大橋川の水量が増大することにより松江城の要害としての機能が高まるということである。もう一つは西流路の消滅により宍道湖の塩分濃度が低下することである。現在は、洪水の多発から西流路が再び整備されたため、宍道湖に流入する水量がピークの一七世紀半ばまでより減少し、真水と塩水がまざりあう汽水湖であるが、さらに塩分濃度が低いと、飲料水や農業用水としての活用が容易となる。
 問題としては天正元年の洪水にみられるように、従来の経験を遙かに超える大洪水が発生していたことである。それまでは洪水はあるが、時間が経てば水は引いて、生活と生産が回復したが、住居を流し去る規模の洪水が発生した。その原因は斐伊川上流部で行われていた鉄穴流しの隆盛であった。これに対処しないと、砂で川や湖が埋まり、松江城の要害としての機能も低下する。また、簸川平野や城下町松江でも洪水の危険性は増大していた。人々の住居は洪水の影響を受けにくい高台に移転したが、耕地はそういうわけにはいかない。ということで対策のための河川改修が営まれていった。
 上流部の鑪関係者は対策の終わりを今か今かと待っているだけではなく、鉄穴流しの効用を主張し、禁止の解除を求めた。その日は唐突に来た。藩主が京極氏に交替したこと以上に、豊臣氏の滅亡により元和偃武となり、松江城の要害としての機能への期待値が下がり、領国経済の中心地である城下町としての機能が重視されたのである。しかし、解除してみれば鉄穴流しにより堤防が高くなる天井川化が進み、斐伊川本流の川幅を広げたために水は容易に簸川平野北部に達し、しばしばそこで堤防を破って決壊したのである。いまさら鉄穴流しの再禁止もできず、いたちごっこのように、洪水が発生し、それを防ぐための治水工事が続いていった。こうした中で西流路も新たに開削された。それは現在にいたるまで続いている(この問題は中世史の課題としてとらえている)。
 川の流路変更といえば、西部の益田川と高津川の問題や、寛文六年の洪水で旧城下町が河床となり流路が変わった富田(飯梨)川の事例もあるが、今回調べて、斐伊川の場合、天正元年の洪水で流路が変わって以降は政治権力が新たな流路を開削したり、それまでの流路を埋めたりしたことが中心であった。

周防国玉祖社寄進者藤原実明について

 保延三年九月日待賢門院庁下文によると、安芸権守藤原朝臣実明が寄進した玉祖社と社領三ヶ所が待賢門院御願寺法金剛院領とされている。天治二年五月頃白河院庁下文を得ていたが、再度の寄進が行われた。この実明について五味文彦氏がその娘が髪長の待賢門院女房(長秋記)二人のうちの一人だとする。もう一人は持明院通基の娘であった。さらに五味氏はこの女房が女院の娘上西門院女房をへて建春門院女房少納言(「たまきはる」では確認できず)となったとする。この見解は女院研究者野口華世氏も踏襲している。
 問題は前にも述べたが、実明の系譜上の位置づけである。「権介」に補任された人物の位階は従五位下が多く、まま従五位上がみられる。保延三年前後の記録に登場する「実明」は源性である。源俊明の子実明であろうか。保延三年正月五日に従四位上に叙せられたのは源実明である。
 藤原姓としては一二世紀初めに大宰権帥を解任された季仲の子に実明(同時に少納言を解官)がいるが、大治三年九月一八日に死亡している。配流から復帰し大皇太后宮(寛子)亮が極官であった。その姉妹には実仁・輔仁親王に仕え、重仁親王の母兵衛佐局を養女としていた源行宗の妻がいるが、保延三年の安芸権介実明ではありえない。『台記』久安六年正月一〇日条には占いに通じた女房治部卿がみえ、故大皇太后宮亮実明朝臣女とあるが、髪長の女房とは別人であろう。ということで、系譜上の位置づけは不明とせざるを得ない。『尊卑分脈』には該当する「藤原実明」はみえず、「実明室」という女性も時代が合わない。

 

2020年8月30日 (日)

八月末の近況2

 囲碁名人戦は基本的には本因坊戦と同様の状況である。ただし井山三冠も今年前半にNHK坏決勝と名人戦リーグで一力新碁聖を破った時と比べてミスが出やすくなっている気がする。虎丸三冠は中国甲リーグに参戦したが、初戦の陳耀燁九段には敗れた。一力碁聖も過去に参加したが一年で終わった。高校生時は国際戦で活躍したが、最近はなかなか勝てない。陳九段は井山三冠と同世代であるが、若手が次々湧き出るように台頭する中国でトップ棋士の座を維持している。囲碁の内容はわからないが、虎丸三冠はもう一歩踏み込みが足らないため、名人戦でも井山三冠のミスに乗じるまでは劣勢であった。人間が判定するよりその差は少なかったようだが、解説の高尾九段もそこまではいいところなしとしていた。女性棋戦は藤沢、上野二強時代が続いている。この二人はトップテンの棋士にはなかなか勝てないが、その次のレベルの若手棋士棋士、例えば志田達也八段、富士田明彦七段、鈴木伸二七段には勝利しており、リーグ入りは可能ではないか。ただし、白星をあげるのは簡単ではない。二〇才で虎丸三冠と同学年の大西竜平五段が初の本因坊リーグ入りを決めて七段に昇段した。将棋はながらく八段が最高位で、A級にならない限り八段にはなれなかったが、現在では九段が最高位でインフレである。A級最年少のひふみんの記録は今後も破られないだろう。現時点での藤井八段の力は一八才でA級となった際のひふみんより上ではあるが。囲碁は昔からインフレ気味で、最高位は九段で同じだが、将棋の方が大変である。大西七段は最年少一一才の仲邑初段と同様、韓国修行で棋力を高めてきた。女流棋士で正式のルートで初段となったのは最近では一四才で入段した謝依旻六段のみである。
 よーやく辞任したが、実質的に世論から、その無能さと行った悪事を追及され、そのストレスから病状が悪化したもので、自業自得である。一般論から「おつかれさま」とは論外である。フランス革命で処刑された王に「おつかれさま」とは誰も言わなかったのと同じである。問題はきちんと自民党がクーデターを起こさなかったことで、これが今後の政局にも影響しそうである。立候補が予想されるメンバーは最年少の河野を含めその資格はないというのが当方の判定であるが、どのレベルであっても政治家にしてはいけない(能力が欠如し、他者の事を慮ることができない木偶の坊)人物が首相になってしまうのが、前にも述べたように「末法な日本」の現実である。いずれにせよ個々の政治家の力量が測れるような場がないと、日本一の別の愚か者が首相になる事態は再発する。アメリカは今回の大統領選挙で改善されるだろうが、日本は見込みがたっていない。なにより愚か者たちがきちんとした根拠を示さずに、自分より遙かにレベルが上の人物にネット上で悪態をつく事態にはうんざりする(最たる例がトランプ)。
 最後に、コロナ禍は個人とともに地域間格差を浮き彫りにした。今のままでは成長していく青少年にとって日本の環境は最悪である。富裕層はこどもとともに海外に逃げ出せばよいだろうが、大多数はそうもいかない。日本沈没の事態は避けたいが、見通しは暗い。方策ははっきりしているが、実現の見込みが薄い。

八月末の近況1

 いつものように自分自身の事ではなく目に映る社会の風景である。八月末〆切の原稿に追われ、歴史の記事をアップできていない。二〇頁が五〇頁を超えてしまい、ひたすら削っている。
 自動ブレーキの開発の遅れでスバルの新型車は発売できなかったが、ようやくレヴォーグが登場した。すべては、自社開発の割合が高いデュアルカメラタイプをやめたところから始まった。新たなアイサイトは既製品を利用したものである。自社開発をやめたことで多くの技術者がスバルを去った。ホンダも早くから自動ブレーキの自社開発に取り組んできたが、これも既製品利用に変わったことで技術者が去った。トヨタは関連会社にデンソー、アイシンを抱えているのが強みである。最近の政府機関のテストではトヨタと日産の自動ブレーキのみが満点であったが、これがどうなるか。アイサイトは日立の共同開発で、その機能限定版がスズキのデュアルカメラブレーキ、トヨタとの関係でデンソー製デュアルカメラを採用し、後発にもかかわらず性能が劣っていたのがダイハツのスマアシⅢであった。タフトも同型である。カメラの性能アップで夜間にようやく対応したというが、肝心のテストで人形にぶつかるブレーキがどうなったかは未だあきらかではない。スズキについては今年末発表のソリオでデュアルカメラから、単眼カメラとミリ波レーダーのタイプに変わるともされる。軽自動車ではスペーシアのモデルチェンジで、夜間非対応のデュアルセンサー(単眼カメラとレーザーレーダー)からデュアルカメラタイプに変わった。ソリオのマイナーチェンジで夜間に対応し、ハスラーにも採用されたものである。軽と普通車で変えていくのだろうか。ハスラーの開発車はコストの関係でミリ波レーダーのタイプは採用できなかったとしていた。ホンダはフィットから広角の単眼カメラのみとなった。少し前まで日産が採用していたが。現在は軽を含めてミリ波レーダーを加えている。コスト重視で選ぶと短期間で変える必要が出てくる。これも年末までに登場するSUVが注目される。現行ヴェゼルのモデルチェンジとも、全くの新型(やや大きい)ともされるが、それとともに新たなプラットフォームを採用しているとされる。自動ブレーキではヨーロッパ勢が先行し、トヨタが最も遅れて本格参入したが、新型になったゴルフの自動ブレーキは今一とも言われている。
 全ての技術はコストを含めれば一長一短である。現行車ではホンダ車に限られるセンタータンクレイアウト方式も車の走りを高める上ではマイナス要素が多いとされる。他のメーカーが追類しないのはそのためだが、新プラットフォームを採用した新型SUVでも採用との情報である。車の性格で採用・不採用を分ければよい。それはマツダの車も同じで、そのこだわりにより軽自動車の開発は不可能である。とても現在の長さには収まりきらない。
 将棋名人戦はより調子を落とした豊島九段が防衛に失敗し、渡辺新名人が誕生した。渡辺名人も最近のアベマTVの団体戦でも負け越したように、今一である。一年前の豊島-渡辺戦ならトップ決定戦であったが‥‥。将棋界は藤井二冠に対抗できるレベルの棋士がいない点で、大変危機的状態にある。

 

2020年8月23日 (日)

延宝二年の洪水3

 延宝二年の水害で水に浸かった検地帳を目録で確認したら、全ての郡にあった。いくらなんでもとして当該検地帳を再確認したが、松江藩が検地帳を保管する場所が水に浸かったため、判読不能となったものを、村に保管されていたものと照合し、それを写したものであった。古いものは慶長年間に遡り、延宝二年寅の洪水が松江城下町にとっては想像を超える規模であったことがわかる。これをみても、洪水の範囲は不明である。勘違いであった検地帳の写本に注目したのはその時期で、貞享二年の一一月から一二月にかけて写本が作成されていた。当然各村の石高を確認して、今後の作業に活かすためであろうが、県立図書館所蔵の貞享三年出雲国絵図が思い出される。
 松江藩以外ではどうかというと、広瀬藩では前年の貞享元年に、年月が経過し不分明となった藩の検地帳を、村に残った検地帳と照合して写しを作成していた。村の保管場所の方が洪水等の被害を受けにくく、通気性など保存する環境を良いのだろうか。逆だと思っていたので、写した際の文言を逆に解釈してしまった。

2020年8月20日 (木)

多祢氏と六波羅奉行人関氏

 建久年間の朝山郷司(庁事)惟元の父守安の兄弟で多祢郷司(庁事)資元の曾孫頼重は在国司昌綱と同世代の人物であるが、関蔵人入道娘との間に十郎昌頼が生まれている。西田友広氏が森幸夫氏の研究に依拠しつつ六波羅探題奉行人の一族と婚姻関係を結んだことを述べている(『松江市史』通史編中世)のは従うべき見解である。森氏は、明確な根拠はないとして消極的ではあるが、「奉行人関氏は苗字の地は不明ながら、朝廷の下級官人清原氏の流れを汲む一族と考えておく」と述べたが、その他の関氏として伊勢国鈴鹿関を根拠とする桓武平氏関氏や常陸国新治郡関を本拠とした秀郷流藤原氏の関氏をあげている。
 後者の関氏は『吾妻鏡』に左衛門尉政綱(左衛門入道も同一人物か)、左衛門尉政泰(その子か)がみえるが、政泰が宝治合戦で三浦泰村方となり没落している。前者の関氏は左近大夫将監實忠がみえ、北条泰時の被官だとする。六波羅奉行人関氏は正応五年に在職が確認できる頼成が初見である。頼成は関蔵人と記される一方で関左(右ヵ)近大夫(延慶元年~正和五年)とみえる。また関右近蔵人良成(元応元年)もみえることから、北条氏被官であった関氏の一族が六波羅奉行人となったと考えられる。
 宝治二年大社遷宮には頼重とともに子頼盛がみえるが、頼重は文永八年(1271)に、頼盛は父に先立ち文永三年に死亡している。また昌頼は昌綱の娘を妻として子辰若丸が産まれている。昌綱は文永四年に京都で死亡しており、在京人でもあった。また昌綱の弟三郎兵衛入道長綱も宝治二年遷宮で在国司右衛門尉昌綱の代官を務めているが、その子兵衛六郎良綱は弘安八年(1281)一一月一七日合戦(霜月騒動)で御方(北条貞時、内管領平頼綱方)として討ち死にしている。前述の六波羅奉行人関右近蔵人良成の存在をふまえると、良綱の母も関氏一族である可能性が大きい。この記事の元となるデータは全面的に森氏『六波羅探題の研究』に依拠している。

 

延宝二年の洪水2

 それでも石見国邑智郡尾原家に残っていた「尾氏春秋」(現在では県立図書館の謄写本が頼りか)をみると、寛文一三年癸丑五月一四日に大水があり、その後、(京都大火後の九月二一日に)延宝元年に改元されたこと、一〇月一一日に大雪が降ったことが記されている(括弧内は当方が追加した情報)。世の人が丑の年の水といったそうなので、それなりの規模の洪水であった。池田正一郎『日本災変通史』によると、播磨から備後にかけての地域でも洪水があった。
 そして延宝二年五月二八日にも大水があり、前年よりも三尺高いところまで浸水したとする。六月二八日には出雲国で同断とあり、これが松江城下の浸水をもたらしたものである。八月一七日には備後と安芸も同断とある。『日本災変通史』によると六月初めには久留米で洪水があり、江戸・大坂も洪水とある。六月一一日には京都で雷鳴とともに雹が降ったという。
 別件ではあるが、県立図書館には貞享三年のものと推定される「出雲十郡図」がある。時期比定の根拠はわからないが(貞享四年開削の高瀬川がないためか)、貞享二年末の検地帳筆写の翌年であることが気になる。原家所蔵とあり、検索した範囲では三刀屋の原家と思われる。斐伊川北進路がなお二本描かれ、出東郡が出雲郡に変更され、美談や国富が楯縫郡に編入されている。ただし、西岸に斐伊川から分岐して日本海へつながる流路(西流路の復活)はまだなく、流路がある元禄一五年絵図に先行する貴重なものである。斐伊川東流(実際には西流路の消滅)だけが重要なテーマでないことを言いたいがための言及である。
 「最後にもうひとつ」とはドラマ相棒で杉原右京の定番の台詞であるが、正保四年の上鹿塚村と出来須村の検地帳を合冊したと称する史料がある。広大にもあるし、島根県立の旧県史の謄写本の中にもあるが、実際に中味をみると、上鹿塚と美談の検地帳である。

延宝二年の洪水1

 寛永一五年の松平氏入部以降の松江藩で収納高が最低であったのは享保の飢饉の最中の享保一七年で、本来の三分の一である一三万五千俵余であった。これは九州で発生したウンカが畿内まで広がったことによるものであった。これに対して二番目が延宝二年で、二二万二千俵である。同七年まで松江藩では独自の桝(江戸桝とも違うか)を採用していたが、幕府が八年から全国的に京枡に統一している。延宝二年は独自桝だと二〇万俵と、実際の数字を切りの良い数字に改めたかの数字である。独自桝は京枡より一割大きかったことになる。
 この飢饉については、原典を確認していないが、「洪水、洗合土手決壊、松江浸水8~9尺、漂家1450戸、害穀74230石、堤防等崩壊90823歩、溺死229人」と記されている(『絵図の世界』P116、出典は『松江市誌』とある)。ただし、元禄一五年は八月末~閏八月初の大風雨で害穀84249石、堤防被害80000歩とある。その年の収納高は二六万俵余と延宝二年よりは多い。
 出雲国西部の検地帳をみていて気になったのが、延宝二年の水害で庄屋宅ないしは郷蔵に保管されていた検地帳が水に浸かって判読不能になったことと、貞享二年末に松江藩が保管していた検地帳を写して与えていることである。現在の出雲市について「広大所蔵検地帳」の目録でざっと確認したところ二八例であった(正確には貞享二年末に写された検地帳の数で、現物を確認したものは一〇に満たないが、すべて該当した)。松江地域についても本日目録で確認するが、出雲国全体での洪水の発生であったことは確実である。
 ところがこの洪水について、新たに作成された『松江市史』近世編からは何の情報も得られなかった。すべては関係者の専門分野があまりにも偏っていたためであろう。近世の古文書に精通していても、現地の様々な情報をもっていないと、正しい分析はできない。前にも述べたが地誌的要素が全くなく、松江市在住でこれを利用できる人はほとんどない。投入された費用に見合う価値がないのである。当方には利用可能だと思われる部分があるので、中世を含めて解説していきたいが、‥‥。以上はとりあえずざっとながめた時点での暫定的評価なので、今後少しずつ精読したい。近世史は前半の史料は検地帳等が中心であるがゆえに、それを有効に活用する方法を見つけなければならない。自分の専門分野に閉じこもり自己満足に浸っている人にはそれは不可能であるが。

 

2020年8月14日 (金)

重症者は多くない?

 東京都の小池知事が毎日感染者数を発表する際に、重症者が少ないと言う。無能でやる気のない首相も同じ事を一つ覚えのように言う。
 四月末までの東京都のコロナによる死亡者は一二〇人、六月末までが三二五人、八月一三日夜の関係サイト更新の時点では三三八人死亡で、重症者は二一人である。極論であるが、五月以降、感染者がなんとか命をとりとめていたとすると、現時点での重症者数の最大値は三三八マイナス一二〇プラス二一の二三九人である。都知事や首相の頭には重症者が減少した理由に、快方に向かっただけでなく、死亡したことがあるのが欠落している。一刻も早く無能な指導者(含む財務相、官房長官、幹事長外多数)を一掃しなければならないことがこの点からもわかるであろう。与党が反省すれば今すぐにでもできることである。それが世論の期待に応えることになる。日本を外国人でも住み着いて才能を開花して生活できる環境にすることが大切である。日本列島がこれまで発展してきたのはこの点が大きかった。
 日本全体でも確認すると、四月末までの死亡者の累計(内はその時点の重症者数)は四五七人(四一五人)、三九県で緊急事態宣言が解除された五月一四日の時点で七一三人(二四五人)、全国で解除された二五日で八五二人(一六五人)、八月一三日時点で一〇七七人(二〇三人)である。これも東京都で宣言が解除されて以降、全国で三六四人が死亡しており、これがなお延命できていたら最大の重症者数は五六七人となる。これでも重症者は少ないのだろうか、マスメディアはしっかり追及すべきである。
 重症者が一五日現在で七二名と全国最多の大阪府のデータを追加する。宣言解除の五月一四日の累計死亡者は六三名、八月一五日現在では一〇六名と、解除後四三名が死亡している。同様の仮定で死亡していなかったら最大で(回復する可能性もあるが)一一五名が重症者となる。大阪府の実情を知らないので、東京都より死亡をなんとか食い止めているのかどうかはわからない。
 ついでにやはり厚生労働省のPCR検査数がおかしい。八月一四日は全国で55240となっており、これも疑問視した五日の39723を更新して最多である。日経のサイトは同じだが、どこが特に増えたのかみてみると、奈良県は最大6000近くを記録したと思えば、一五日はマイナス4000弱と混乱している。東洋経済のサイトでは九日が5847とあるが、その前後は0と理解しがたい状況である。千葉県も一二日が7358という東京以上でとてもありえない数字である。神奈川にいたっては一四日が37032となっている。当該県のサイトでは神奈川は一三日の2113まで掲載、千葉では一四日が534である。NHKは一三日の19476まで掲載している。
追記:東京都は重症者の基準を勝手に変えていたことが判明。ICUに入っていれば重症者だが、人工呼吸器を付けていない人を除いて、数を少なくごまかしていた。

因幡国御家人佐治氏

 佐治氏については森幸夫氏「探題執事佐治重家の活動」(同『中世の武家官僚と奉行人』、2015)がある。重家関係史料を除けば関係文書は弁官補任紙背文書四通(国立歴博所蔵)のみである。当然新『鳥取県史』にも収録されている。写でもあり、佐治氏が伝えたものではなかろう。①七月三〇日関東御教書以外の年月日のない二通②③は判決が出された建暦三年一一月三〇日関東下知状④を承けて出されたものであり、七月三〇日の文書も建暦三年のものであろう。
 ここで問題とするのは、四〇才代であった佐治四郎重貞がなぜ鎌倉にいて、五月三日の和田義盛の乱で勲功を上げたのかである。森氏は訴訟のため鎌倉を訪れていた重貞が、勃発した乱に際し、裁判を有利にするため北条氏方として奮戦したとしているが、そのような事があるだろうか。因幡国御家人では長田氏が頼朝への過去の行為により平家方であったにもかかわらず所領を安堵され、その後幕府の奉行人となったことが知られている。因幡国御家人と幕府の関係を考えるためには、因幡守護と因幡守の問題が不可欠であるが、守護については知行国主源通親のもとで大江広元が国守となったが、広元の嫡子親広は通親の猶子となっていた。その後の守護は不明である。
 以前、通親の死後、葉室宗嗣が国守となっており、国主も葉室氏と考えたが、通親の子で因幡国知行国主となった久我通光は葉室宗頼の娘を室としており、宗嗣は宗頼の子宗方の子で、養父となった宗行は藤原行隆の子から宗頼の養子となっている。通親の死後、続けて子通光が因幡国知行国主となったのだろう。
 以上を踏まえると、佐治「道」貞の名前が注目される。音は同じでも字が違うという人は中世史の研究はやめた方がよい(現実にはやめた方がよい人が多数派なので困ったことだ)。道貞の子重貞の舎兄の名は④では「安貞」、②(鳥取県史の66号、③は67号である)では「康貞」とある。中世史料ではままあることで写し間違いの可能性は低い。長田実経が因幡守大江広元のもとで広経と改名し、その子で引付衆となったのは広雅であった。通親の子で石見国知行国主となった定通は北条義時の娘を妻としていた。通親のもとで因幡守をつとめた子通方の子顕方は定通の養子となり、何度も幕府の行事に参加している関東祗候の公家であった。
 この様な中で、道貞が広経と同様、御家人であるだけでなく、幕府との関係を強めていた人物であった可能性は大である。また①では重貞の訴えを受けた幕府は、事情を熟知した因幡国で両方を召して報告させ、その状に基づき判決を下すとしている。森氏の言うように、裁判のため鎌倉にいたのではなく、重貞は鎌倉で居住していたのではないか。それゆえに森氏が重貞の子と推定する重家が北条重時の側近になった。幕府が成立して間もない頃に道貞が子重貞への譲状を作成したが、なお重貞が幼少(一〇才前後)であった。舎兄曳田康貞が重貞が成人するまで自らが預かると申し出て認められたが、一向に譲ることなく、実子重久に譲ったので、重貞が訴えたのだろう。佐治の地名は鳥取市佐治町としてその南部に残っているが、曳田という地名は旧佐治村の北側にあった河原町曳田として残っている。河原村が一九二六年の町制施行により町となり、戦後は周辺四ヶ村を合併したが、二〇〇四年に佐治村とともに鳥取市に編入された。
追記:出雲守藤原長貞が鎌倉にいて、義盛の乱で勲功を上げたことは前に述べた。

2020年8月13日 (木)

中世塩冶郷の範囲

 塩冶郷と朝山郷の境界は入り組んでいるようであるが、近世の中野村は大津村から独立したことからすると中世の塩冶郷に含まれていたと思われる。中野村の西隣の朝倉村までが塩冶郷で、さらに西隣の今市村は朝山郷に属していた。現在の大津町が石塚村との土地の交換により成立したことからすると、大津町の北側にも石塚村分があった可能性が高い。森広家の本来の居住地「かけど」や雲根神社があった。一九世紀初め前後の地図には、斐伊川沿いの低地に「石塚村」との記載がみられる。また、一七世紀前半には並行して二本あった斐伊川北進路の内、西側が消滅したことにより、北島村分が北進路の西岸に存在したことも確認できる。東側の流路が生まれたことで減少した土地の見返りを求めたものであろう。一七世紀の中野村の検地帳は残っていないが、元禄一三年の大津村検地帳で慶安二年の検地帳から田数で六〇町以上減少したのは中野村が独立したからだとされる。ただし、現在の斐伊川沿いの地は北島村分であり、その西側が中心であったと思われる。中野村の対岸は大社領武志郷であるが、中野村に西北連なる杼島村、荻原村、高岡村は塩冶郷内であった。
 これとは別に、西部の園村と荒木村も中世塩冶郷に属していた。一見すると中心部の間に朝山郷が入り込んでいるようであるが、神戸川沿いの松枝村と下庄村は中世朝山郷に含まれないので、この二つの村が園村につながっていたことになる。斐伊川、神戸川という二大河川沿いが塩冶郷に含まれていたことになる。このことが、承久の乱後、朝山郷を関係庶子による継承を認め、塩冶郷を守護領とした理由であった。
付記:『出雲塩冶誌』近世編には斐伊川本流北側の稲岡村が中世塩冶郷内だとの記述があり、唖然としてしまう。これが担当者の能力なのであろう。

2020年8月12日 (水)

川跡神社の位置

 川跡神社の位置をようやく確認した。電鉄川跡駅のそばだと思い込み、現在の斐伊川本流が十七世紀まではより西側を流れていたことにちなむ神社だと思っていたがさにあらず。明治二二年(一八八九)の市町村制施行で近世の六ヶ村が合併して川跡村が誕生し、大正四年(一九一五)に大正天皇即位を記念して村内の神社を統合して川跡神社が生まれた。それに先行して明治八年(一八七五)には荻原村と杤(杼)島村が合併して荻杼村が誕生していた。神社統合の原因は高岡八幡宮を除きその維持が困難となっていたためだが、選ばれたのは全体の中央に位置する荻原八幡宮の地であった。現在の川跡コミュニティセンターもその近くにある。現在の出雲市の大字は川跡村成立前の五ヶ村に基づくようである。
 出雲市については土地勘がなかったが、「川跡」については電鉄を利用したことで認識していた。母親が平田市平田の出身であり、その実家から大社に行く機会が何度かあったため、「かわと」の音が頭に残ったと思われる。何も知らなければ一から調べるが、中途半端に知っていると誤解の原因となる。今回はこの点を痛感した。現在の荻杼町と武志町の境界線はとても川の流れとは一致しないので、川跡神社の地点から南東方向に流れて武志町と中野町の境界に至っていたと思われる。
 高岡八幡宮の位置がどこかを確認したかったが、『郷土誌川跡』に写真とともに掲載されている地図をみても、現在の状況と違いが大きく、住宅地図で照合できず、確認できなかった。高岡八幡宮の中世文書を伝えた永田家は八幡宮神主の関係者だと思うが、旧島根県史の段階ですでに松江市在住であった。現在の住人には比定可能な人もいようが、あと一世代すぎると、地元の人にもわからなくなるのではないか。六ヶ村の神社が所在した場所はそれそれに理由があって選ばれた場所であり、今のうちにその場所を地図の上に落としておいたほうがよい。『風土記』の神社だと根拠もなく比定して地図上におとしてあるが、もっと地に足を付けた作業が必要である。
 公民館、コミュニティセンターによっては地図を作成し公開している例もあるが、川跡の場合はHPや広報誌をみたかぎり、そのような作業はなされていないようだ。四絡の場合は「昔を知ろう」「歴史まち歩きマップ」がある。その内容には課題があるが(例えば、建武二年一二月三日尼覚日譲状にみえる「やの々むら」が四絡の矢野村とされているが、そう思う人はお目出度いとしか言いようがない。この矢野村は朝山郷内である。天保郷帳に「杵築矢野村」(修理免、北荒木、中荒木)とあるので、修理免を指しているとすべきである)、とりあえずはある。昨年講演に訪れた松江市の本庄公民館のHPは充実していた。
 話を戻すと、現在の川跡神社は中世の斐伊川本流(北西路)の南側河岸段丘上に位置しており、その意味では間違いなく旧斐伊川本流にちなむものであった。
補足:過去の「大湊について」で「やの」は菱根村内の地名との説を紹介しているが、これが修理免を含む六ヶ村に分かれている。

2020年8月11日 (火)

PCR検査件数

 日経のサイトをみると、八月五日の全国の検査数が四万件弱となっていた。その前後の検査数は二万五〇〇〇件程度なので、どこで検査が多かったのかと思った。念のため厚生労働省のサイトで確認すると同じであった。日経が全国の検査数については厚生労働省のデータを利用していることは前述の通りである。
 日経のサイトでは主な指標については都道府県毎にみることができるので確認すると、神奈川県の検査数が一万八千件弱であった。東京都の最多検査数(最初に発表された件数がその後の追加により増加)は七月二七日の六四三八であり、これは両者の感染者数(東京が神奈川の三倍程度)からみてもありえない。そこで神奈川県のサイトで確認すると、八月五日の検査数は二千件弱であった。その前後は最多でも二二〇〇程度である。日経のサイトに入力ミスによる誤りがあり、それが後になっても訂正されないことは述べた通りであるが、「厚生労働省よ、おまえもか」である。八月五日の全国の検査数はその前後より一万五〇〇〇件多く、その日の神奈川県分は実際より一六〇〇〇件多かった。他の都道府県分についても誤りがあるかもしれないが、問題は訂正されていないことである。ちなみに感染者数が東京に次いで多い大阪府では八月四日の二三七九人(こちらは検査人数)が最多である。大阪府のサイトでは五日までしか確認できないが、日経のサイトで確認すると、七日の検査人数が二六〇〇人程度で最多である。こちらは八日まで掲載している(NHKのサイトでは厚生労働省まとめとして検査実施数のグラフを掲載しているが、五日が最多だが、その数は二八八三五件と妥当な数字である)。
 おそらく、国でもコロナ禍に関係する部署の職員の労働環境は最悪のレベルにあるのだろうが、他部署・他省庁の統計のプロがチェックしてもよいのではないか。東京都のデータも陽性率のデータのもととなる検査人数と陽性者数は七日夜の更新で止まっており、検査実施数のデータも八日夜の更新から一向に改められていない。日経のサイトでは東京都の検査数は七日の二〇〇〇弱のままであるが、これはいつの時点の発表数であろうか。
 なお、旧国の中で日本海側の人口減少地帯ではコロナ禍の感染者が出ていなかったが、八月九日の出雲部でのクラスターに関する知事の会見の最後に、旧石見国での最初の感染者が確認された。前に述べた旧国で今どうかなど調べる気力もないが、都会から人がやってきたためではなく、都会へ出かけて帰った人であった。出雲部のクラスターも遠征試合による可能性が大きい。学校のHPでは感染防止のため、ドアの取っ手をなくして、押して開けるタイプに更新したことが記されていたので、ある程度は注意をしていたが、遠征でウィルスが持ち込まれると、どうしようもない。昨日からはじまった甲子園の大会が中止にならなかったことが不可思議である。これがサッカー部ではなく野球部だったらどうであったろうか。
NHKのデータも追加が加わったのが五日が三三二八五件、六日が最多で三五八二五件となった。一〇日の一〇四二一件まで表示(12日21時)。

2020年8月 9日 (日)

八月前半の近況

 近況と知っても自分の近況ではないが、毎日、東京都のコロナ関係データーを自分が作成した表に入力しているが、その意欲は低下気味である。モニタリング項目である「検査の陽性率」は日ごとのPCR検査指数と抗原検査数とそれに伴うそれぞれの陽性者数を掲載しているが、その数は追加により増加するだけでなく、過去に遡って陽性者数や検査数(最大100近いこともあった)が減少するという理解不能な事もしばしばあり、時には過去一ヶ月以上遡って修正することもある。これが意欲低下の原因である。検査実施検査数も毎日報道されているが、研究安全研究センター実施分はそれほどでもないが、医療機関等実施分は追加で増加するだけでなく、過去一ヶ月分以上に遡り減少することもある。以上の二項目については更新が遅れがちで、現時点(九日夜)で、陽性率は八日夜、検査数は七日夜の更新のままである。とりあえずは惰性でも続けるしかないか。
 将棋名人戦は挑戦者が三勝二敗とリードしたが、両対局者ともピーク時とどのうように違うのだろうか。挑戦者も相手が藤井棋聖であったらこのようにはならなったであろう。豊島名人は昨年度の王位戦でも後半に失速し、木村九段による最年長の七大タイトル獲得をアシストしてしまった。両者ともベストの時期とは紙一重なのだろうが、現在は不調であり、結果がどうなるかは神のみぞ知るである。
 囲碁は井山三冠が全勝で名人戦挑戦者となった。井山氏の調子次第だが、現時点は名人奪取の可能性は七割程度あろう。芝野名人ももう一段階アップしないと、防衛と国際戦での活躍はおぼつかない。中国だとすぐに次の世代が台頭してくるが、日本はそこまでの状況にはない。一方、碁聖戦は一力新碁聖の誕生は間近である。とはいえ、国際戦のことを考えると、このままでは不十分である。大学卒業により囲碁に使える時間が増えたことがプラスに働かなければならない。
 小学校二年で小学校名人となったのは山下、井山の二人だが、コロナ禍で対局が停止となるまでは絶不調であった山下九段は、再開後は本来の姿に戻っている。趙治勲氏による百田尚樹『幻庵』の書評が話題となっている。百田氏の政治的立場に基づく論説は論外であるが、書き手としてのエンターテイナー性はなかなかである。本そのものは一度読んでみようと思ったことはあったがなお未読である。幻庵の棋譜集は古本で購入して持っている。
 当方が幻庵の存在を知ったのは過去の『月刊碁学』の囲碁史に関する記事からであろう。赤星因徹や秀策との歴史的対局で知られているが、石見国大森出身の岸本左一郎との対局も知られていた。その棋譜は残っているが、どこで打たれた碁かは不明確であった。それがネット検索でヒットした山口県文書館所蔵の儒者の日記により明確となったことは過去にブログの記事で述べた。以前は千葉大学の荒木直躬氏(成田山仏教図書館が所蔵)や慶応大学の高梨健吉氏(慶応大学図書館が所蔵)などの囲碁史史料収集家がいたが、現在はどうであろうか。

2020年8月 8日 (土)

古湊分検地帳

 旧島根県史編纂時には各村役場が保管していた検地帳の調査がされているが、現在のようにデジタルカメラで手間いらずに安価に記録ができないので、請作者が特別なものと最後の集計部分のみを筆写した抄本となっている。現在残っていないものもあり貴重である。一方、広島大学図書館に広島国税局から移管された検地帳が残っているが、これは藩から明治政府へと移管されたものである。前者は庄屋のもとに残されたもので、後者は藩に提出されたものである。あえて比較すると、後者には年次の古い検地帳が含まれるのに対して、前者は年次が相対的に新しい。新たな検地帳が作成されれば、特別の場合を除いて、過去のものを廃棄したのだろう。後者の中には本来の年次よりかなり時間が経過した時点で、村が藩から写したことを示す記述があるものもある。その場合にも、藩にも写しを残したのであろう。
 県立図書館には元禄一一年矢野村御検地帳と同年矢野村之内古湊分御検地帳の抄本があるが、前者にのみ個別の田畑が写されており、後者は集計部分だけである。ただし、前者の田数に後者の田数が含まれており、重複をさけたのかもしれない。広島大学所蔵分には含まれないが、『四絡郷土誌』(一九八六)によると地元に残っているようなので、連絡をして一五年(以上)ぶりに訪問した。以前は公民館だったが、現在はコミュニティセンターで建物も新しくなっていた。ただし、センターでは保管していないとのことで、「古湊」がどこかもわからないとのことであった。検地帳については永田滋史氏『出雲市地名考』(一九八八)にも写真が掲載されていたが、そこには「出雲市立図書館・収蔵」とあったので、昨日朝に問い合わせて調べてもらうと、保管しておりマイクロフィルムなら閲覧可能とのことだったので、昼から出かけて閲覧した。
 写真では検地帳は一冊であったので、合冊されていると思ったら、古湊分は独立したものではなく、一筆毎の字に「同所古湊分」とあり、最後の集計でも等級毎に田数を記す中に「古湊分」の田数が内数で記されていた。旧県史はこれを独立して抜き出したものであった。古湊分は村全体の田数の五分一強を占めているが、特定の字ではなく、四分三程度の字に「古湊分」が含まれており、「古湊」の所在を確認する材料を得るとのもくろみははずれてしまった。古湊分の等級分布は村全体の分布と同様の比率である。「請作者」は三人いるが、そのほどんどは「六郎右衛門」とあった。一人で村の五分一以上の田を請作していることになる。但し、畑は五〇分の一程度と少ない。
 「古湊分」とは旧古湊在住者が請作するものであったが、それにしても田数が多いのみならず、広範囲に分布している。古湊が都市であった時点の年寄ないしは目代の家であったのだろうか。ただし、屋敷帳の部分には「六郎右衛門」はみえず、村の外に居住しているのだろう。このようなケースは外にもあっただろうが、それがこのような形で残っているケースはない。慶安二年の矢野村検地帳は二〇町弱分のみ残っているが、集計部分がないため、全体の田数は不明である。元禄一一年の田数は四三町余であり、これに近い田数であったと思われる。ただし、慶安二年の検地帳には「古湊分」という注記はなく、とりあえず、請作者の名前を再確認し、「六郎右衛門」の先祖にあたる人物がいないか考えたい(確認したが、一人で大量の請作をしている人はいない)。

 

2020年8月 4日 (火)

平重盛と藤原成親2

 平重盛は鹿ヶ谷の陰謀で配流殺害された後白河院の寵臣藤原成親の同母妹経子を正室としていた。重盛の長男維盛は経子所生の清経以下の異母兄であるが、成親と藤原俊成の娘後白河院京極局との間に生まれた建春門院女房新大納言を正室としている。また俊成の娘八条院坊門局との間に生まれたのが、いち早く頼朝と結んだ公佐であった。公佐は幼少時に成親が死亡したため三条公教の子実国の養子になったが、実国の正室は家成の娘で、成親の姉妹であった。同母であったため、養子となったのだろう。公佐の同母姉妹には、持明院基家の嫡子基宗の室となり、後堀河天皇の乳母となった成子と、重盛と経子の間の長男(二人の異母兄がいるので三男)清経の室となった女性がいる。以上の関係をつないだのは藤原俊成であった。
 成親の同母弟盛頼は鹿ヶ谷の陰謀で尾張守(成親が知行国主)を解官されたが、幕府成立後、頼朝から過去の行為への代償として所領を与えられた(服部英雄「鹿ヶ谷事件と源頼朝」)。同様に尾張国目代であった平康頼は、成親の嫡子成経とともに薩摩国鬼界ヶ島に配流されたが、翌年には成経の正室の父平教盛の働きかけもあって赦免され、都に戻った。康頼もまた頼朝から阿波国麻殖保の保司に補任された。成経の正室は教盛と日野資憲の娘の間に生まれている。成経は官界に復帰し、蔵人頭を経て建久元年(一一九〇)には参議となり、建久五年には皇太后(忻子)宮大夫に補任された。忻子は德大寺家二代目公能と藤原俊忠の娘豪子との間に生まれている。豪子は忻子の生年(一一三四年)からして俊成(一一一四年生)と年齢の近い同母妹であろう。成経自身の母は藤原親隆の娘である。親隆は勧修寺流為房の晩年の子で、母讃岐宣旨は藤原忠通の乳母である。彼女の母は不明であるが、その兄弟はいずれも待賢門院乳母但馬が母で、信朝は女院御願寺法金剛院権上座となり、増仁は父隆尊と同様、法成寺上座執行となり、崇德天皇の御願寺成勝寺に出雲国飯石社など三箇所を寄進している。親隆と二才上の同母兄朝隆が、鳥羽院近臣であるだけでなく、女院並びに摂関家とも深い関係を有していた。
成親には「兵衛督成家室」となった娘がいたが、該当者はいない。『尊卑分脈』一本(編纂所データベース『史料綜覧』の元史料)には「兵衛佐盛定ヵ」としているが、藤原俊成と美福門院加賀の間に生まれた長男成家で、「兵部卿」を誤ったものである。
 本ブログでは待賢門院・崇德流の人々に注目し、そのつながりの元となったのは勧修寺流為房の子で夜の関白と呼ばれた藤原顕隆と藤原俊成の父俊忠であることを述べて来たが、平重盛と藤原成親は俊忠の子孫と深い関わりがあった。俊忠の長男忠成の嫡子が藤原光能であり、忠成の娘は德大寺公能、以仁王、持明院基宗の室ないしは妾となっていた。

平重盛と藤原成親1

 不十分な点があったので補足・修正する。
 永万元年(一一六五)時点の丹後守の情報は無いとしたが、五味文彦氏『平清盛』には、同年六月二四日に平季盛が丹後守に補任されているが、これは丹後国を清盛が重盛に譲ったものだとの記述がある。季盛については『国司一覧』に仁安二年(一一六七)正月四日時点で丹後守に見任していたことが記されている。これは一九日に後白河院が法住寺新造御所に移徒する際の役割を定めたもので、殿上人の饗を担当したのが丹後守季盛であった。一九日に実際に勤めたのは丹波守藤原惟頼であったが、交替の理由は記されていない(当方は誤りとみて重視せず)。一方、永万元年六月二四日には丹後と伊予で国替があった(『顕広王記』)。伊予国はそれまで藤原能盛を国守とする平清盛の知行国であったが、丹波守であった藤原資頼が遷任してきた。ところが在任一月にも満たない七月一八日には越中守に遷任している。そのため、「丹後」は「丹波」の誤りとも考えたが、意味が違ったことになる。丹後国では国守藤原季能(知行国主は父俊盛)が長寛元年(一一六三)正月二四日に讃岐守に遷任しているが、その後任某については不明である。この某に代わって季盛が平氏知行国の国守になったと五味氏は考えたでのあろう。平季盛とは伊勢平氏庶流で保延三年一一月に伊勢神宮の神官に訴えられ、佐渡に入るされた人物であろう。その後、康治二年閏二月三日には「前主殿助平季盛」の召喚が決定された(野口実「院政期における伊勢平氏庶流(補遺))。
 この季盛と但馬国温泉郷竹田寺木村を伝領していた平季盛は同一人物であろう。康治元年(一二四二)頃には郷司や百姓が妨げをなすため、国司に訴え、證判を得たという。実際にはそれに先立つ保延五年(一一三九)には子季広に譲られていた。季盛が佐渡に配流されていたためであろう。またそれゆえ、周辺からの干渉があった。次いで季広が所領を聖顕に寄進し、長寛三年六月には但馬守藤原親弘(美福門院の乳母父親忠の子)が、聖顕から蓮華王院への寄進を認めている。長寛三年は二条天皇が病気となったため、六月五日に永万元年に改元され、二五日には生後半年の六条天皇が即位したが、七月二八日に二条院は二三才で病没した。丹後国知行国主となった重盛が府中に北野天満宮を勧請して北野社を創建したのはこの年であった。治承二年正月二八日に丹後守は平経盛の長男経正に交替したが、治承三年一月六日の東宮五〇日の儀式では女房衝重二〇前を内大臣が知行する丹後国の国守平経正が分担しており、依然として重盛の知行国であった。安元二年(一一七六)二月から三月にかけて重盛の子師盛の丹後守見任が確認できるが、治承二年(一一七七)正月二八日には経盛の知行国若狭の国守に遷任している。知行国主はそのままで、国守の相博が行われたことになる。

 

2020年8月 2日 (日)

丹後国北野社について3

 天橋立図のサイトには平家と府中のつながりは清盛の祖父正盛以来であるとするが、これは機械的で根拠なき文である。源義親の乱平定により正盛は在任一年余りの因幡守から但馬守に栄転したとされるが、在任三年弱で天永元年末に丹後守に遷任している。これは正盛が隠岐守に補任されたことと、平家滅亡時に隠岐国に平家領があったことを結びつける論と同レベルの論である。なお、因幡守も院近臣が補任されることが一般的であった。正盛が若狭守から因幡守に遷任していることからも、その重要性がわかる。
 重盛の母は高階基章の娘であるが、基章は源家実の子から、母の兄弟為章の養子となっている。為章の子には待賢門院女房遠江内侍がおり、その兄弟宗章の子には待賢門院加賀がいた。重盛の妻経子の父経忠は待賢門院璋子の同母姉実子を妻とし、経忠の長男から四男までの母は実子である。三男信輔の場合、長男信隆の生年からして経子の父家成と同世代と考えられ、経子の母もまた実子である可能性が高い。経子の異母兄隆季(母は高階宗章の娘)が待賢門院との関係が深いことはすでに述べたが、成親、経子もまた待賢門院流に属していた。それを踏まえれば、成親の遺児公佐が、一条能保、平頼盛らとともに、いち早く鎌倉の源頼朝と連絡を取ったことも理解できる。なお、重盛の長子維盛は成親の娘を正室としている。
 重盛の二男で、後には嫡子となった資盛は、経子を母とする四人兄弟の異母兄であるが、重盛の子では唯一公卿にまで進んでいる。歌人で平徳子に仕えた建礼門院右京大夫との関係が有名だが、その正室は持明院基家の娘であった。基家は通基と上西門院(待賢門院娘)因幡との間に生まれたが、同母兄通親と通重が早世したため、祖父基頼と父通基が整備した持仏堂持明院を継承した。通重と德大寺公能の娘との間に生まれたのが一条能保で、父の早世でその昇進は遅れたが、妻坊門姫の同母兄頼朝が幕府を開いたことで、一転して栄進し、従二位権中納言まで出世した。重盛の持つ背景により上西門院分国能登の国守をつとめる基家の娘を資盛が正室としたのではないか。ただし通説では基家の子基宗が仁安元年に加賀守に補任されたのが上西門院分国の初見とされるが、当ブログでは通重が能登守であった際に待賢門院分国が娘統子内親王の分国に移行したとの説を提示している。この通重が国守であった時期に能登国では院と摂関家によって次々と巨大な庄園が立券された(石井氏が鳥羽院政期の事例とされた庄園は一例以外は通重の時代の成立)。
 以上、丹後国北野社勧進状から分かることを述べた。院政期と南北朝期の両方に通じている中世史研究者はいないが、地域史を研究していれば、両方について断片的ではあるが情報を持っていることがあり、つなげてみた。サスペンスではその後半で主人公が「これですべてつながった」とつぶやくのが通例である。これはフィクションでの話で、ノンフィクションではほとんどありえないが、ごく希にこういうことが起こる。

丹後国北野社について2

 当方が注目したのは以上の点とともに、応安の頃に中興造営・遷宮を行った「当国刺史土佐前司沙弥道政」である。「刺史」とは中国の地方監察官で、唐代には州の長官であったようだが、ずばり丹後守護山名師義の守護代土屋(大葦)土佐守であろう。貞治三年一〇月一五日山名氏奉行人下知状(堀口家文書)に「先年土屋土州遵行」とみえる。先年とは時氏が南朝方守護であった時期、ないしは観応元年まで幕府方守護であった時期であろう。師義の死後、嫡子義幸が守護を継承したがその時期の守護代も土屋氏であった。その後、義幸が病弱であったため一時的に弟満幸が守護となるが、至徳二年七月一八日丹後守護山名満幸施行状では、幕府御教書に任せて下地を打渡すよう「□〔土〕屋土佐守」に命じている(丹後郷土資料館所蔵文書)。
 ではなぜ大葦(土屋)土佐前司入道は退転して久しい北野社の造営・遷宮を行ったのだろうか。山名師義の守護代として府中の神社の整備を行ったという意味もあろうが、それ以上に苗字の地である出雲国島根郡大葦(北野末社)との関係であろう。鎌倉時代の土屋氏一族は大葦を取り囲む形で存在した蓮華王院領加賀庄の地頭で、北野末社地頭は東国御家人香木氏であった。それが後醍醐による隠岐脱出から倒幕までの貢献で土屋氏一族で大葦を与えられた人物が大葦氏を名乗った。大葦氏は丹後国内にも所領を与えられており、その庶子が幕府方であった山名氏の家臣となり、反幕府方となった時期の山名氏を支え、復帰した後も重臣であり続けた(垣屋氏もその末裔)。
 平重盛が北野社を勧請したのは蓮華王院完成の翌年であった。蓮華王院領加賀庄の成立はこの前後であり、北野末社はそれに先行して成立した。そうでなければ加賀庄内となったはずである。そして大葦の寄進者として考えられるのは待賢門院庁の中心であった持明院通基である。通基の父基頼は能登守であった元永元年一〇月に菅原保を京都北野天神に寄進している。通基自身は山陰道では因幡守、丹波守を歴任し、出雲守には補任されていないが、出雲国は二期八年にわたり、待賢門院分国となり、幼少時から女院に仕えていた源光隆が国守であった。出雲守の経験のない日野資憲が揖屋社を崇德院御願寺成勝寺に寄進できたケースと同じである。

 

丹後国北野社について1

 ネット上で情報を探していると、偶然、予期せず重要な情報と遭遇することがある。今回は嘉禎期の守護のリストを記した資料を所蔵する資料館を確認しようとして「丹後郷土資料館」だったかなとうろ覚えで検索して遭遇した。正解は丹波篠山市立青山歴史村の「青山文庫」というコレクションに含まれており、「古文書研究」掲載論文の論者木下氏のブログから国文学研究資料館が撮影したマイクロフィルム画像へ飛ぶことができ、確認した。
 ブログの前の記事で日本海側の国々ではコロナ感染者が確認されているのだろうかと調査している途中で、寄り道したものであった。日本海側に限らず、中世・近世と水運の拠点として繁栄した地域は明治以降の鉄道開通ですっかり衰えていることを認識させられた。房総半島先端の安房国も院政期の知行国主や鎌倉幕府成立期の状況を見るとその重要性がわかるが、現在の人口は少ない。完全ではないが、旧安房国関係では医療従事者に一名感染が確認されているようだ。その人は東京からの通勤者である。予想通り少ない。丹後、丹波、但馬といえば院政期の国守ならびに知行国主は院近臣とその関係者で占められている。北陸若狭も同様であるが、現在の人口は一〇万にも満たない。小浜市もオバマ大統領との音の一致で注目されたが人口は三万以下である。湊町と言えば敦賀もあるがこちらは越前国で、小浜と敦賀を会わせて人口は一〇万程度である。そして若狭と敦賀と言えば、原発銀座である。
 話を戻すと、丹後郷土資料館だより第三号(2014、ネットで公開)には資料課吉野健一氏による「「北野社勧進状」について」が掲載されている。北野社が勧請されたのは丹後国府中であった与謝郡府中拝師郷内で、知行国主であった平重盛によって京都北野天神が永万元年に勧請されたとする。府中には小松殿と呼ばれた重盛にちなむ「小松」という地名が残されている。当該時期の丹後守については史料がなく、貴重な情報となりうる。重盛は応保三年正月に従三位となり、長寛三(永万元)年五月には参議に補任されているので丹後守ではありえず、丹後国を知行国として認められ、関係者を国守としていたのだろう。その長子維盛は七才で可能性はあるが、叙爵はその二年後であり、該当しない。
 「府中をよくする地域会議」によって「雪舟「天橋立図」を旅する」というサイトも立ち上げられているが、その中に「北野」として天神神社の説明がなされている。勧進状は天文五年二月のものであるが、その中で過去の由緒について述べられている。その中で「爾来至治承・寿永忠房・師盛郷(「卿」との注記があるが両者とも公卿にはなっていない)以下帰服」とあるが、忠房と師盛はいずれも重盛とその正室経子(家成の娘で、鹿ヶ谷の陰謀の首謀者とされた成親の同母妹とされる)の間に生まれた四番目と三番目の男子である。『玉葉』治承元年一一月一九日条に、兼実が職事良盛に「五節」の舞姫の装束を丹後五節所に送ったことと、「内大臣沙汰也」と述べていることから、この時点の知行国主は小松内大臣重盛であった。勧請はこの時期ではないかとの説も可能だが、勧進状の内容は信頼性が高いとすべきである。 

2020年8月 1日 (土)

コロナ関係データの見方

 当然のことながら、全国の状況以上に自分の居住する自治体の情報を確認しなければならない。
 七月二九日に全国で唯一感染者が未確認であった岩手県での感染が報告されたが、島根県での感染報告は出雲部に限定されており、旧国名の石見と隠岐では未だ感染者の報告はない。そこで他に旧国名単位で感染者がないかを確認してみた。あるとすれば離島であるが、最多と思われる淡路国は一四例報告されている(7/30現在)。対馬では7/30日に初の感染者一名が報告された(長﨑県内六二例目)。壱岐は感染者は三月一四日から四月五日までに六例(その時点の長崎県全体は一二例)確認された後はないようである。残るは佐渡であるが、7/22日に初の感染者が確認され、一名である。という事で旧国名単位では石見と隠岐のみが感染者ゼロである。
追記:気になった日本海側についてざっと確認すると、但馬、若狭(福井県では120を越えているが関係市町のHPからは発生している様子はうかがわれない)、能登についても感染者が確認されていないもよう。丹波(兵庫管内は無いようだが、京都府管内で。)、丹後(人口20万弱であるが、丹後郷土館が活動を継続)は確認されている。石見は人口20万程度であるが、能登も20万程度、但馬については16万人(正確には但馬県民局管内)以下である。地域史についても研究がほとんどないので気にはなっていたが、日本海側の過疎の状況をいまさらながらに認識した。
 以前から日経のコロナのデータの問題点を指摘したが、それはNHK、東洋経済のサイトでも同様である。他のサイトも同じであろう。厚生労働省のデータはどうであろうか。データがその時点のみで、過去に遡って確認できない。
 東京都のデータで発表から更新により変化(ほとんどが増加であるが、まれにデータの日付が誤りであったためか減少することがある。昨夜はデータによっては六月末まで修正した)しないのはマスメディアで最初に報道される感染者数のみで、その他は四日程度は 追加があり、修正している。現在問題のPCR検査数も昨夜の時点では七月二七日の6189が最多である。ただし、このデータからは四連休中に検査数が少なかったことがそれほど明確ではない。感染者数と同様、24時間単位で集計するが、こちらは追加により過去のデータも上昇していく。ところがマスメディアのサイトは最初に報道された数でグラフを作成したままで、その後の追加は反映していない。厚生労働省のデータも怪しいが(都道府県から、過去のデータの修正を含めて、報告している可能性は少ない)、各サイトが厚生労働省のデータを参照していることは確かである。
 話を戻すと、東京都では二三日以降の四日間のデータが少ないのは確かだが、検査日とはズレがある。順に2433、1652、3343、1135である。その前後は二二日が5710、二七日が最多の6189である。このデータは検査日ではなく、報告された日が基準なのでズレている。また検査人数ではなく検査数である。これに対して陽性率の算出データとなるのは陽性と判明した日を基準としたデータである(これとは別に陽性が確定した日を基準としたデータもある)。こちらは二二日の検査人数が二二日から順に2437、2796、1697、2930、1471、5258で、それぞれの日の陽性率は6.3%、9.0%、6.8%、5.1%、4.7%(その後は、7.3%、7.9%、7.0%であるが、こちらは検査人数を含めて今後の追加がある可能性が大きい)。

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