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2020年7月27日 (月)

八雲山と国造館

 『愚考記』が旧島根県史で利用・言及されていないか確認したが、そのような箇所は見当たらなかった。旧県史編纂時に作成された大量の近世史料の謄写本は、『旧島根県史編纂資料 近世筆写編』として紙焼きを合本した冊子で閲覧することができるが、その中には含まれていないので、予想してはいたが。その中で「八雲山」をめぐる松江藩の裁許状(北島家文書)に遭遇した。「八雲山」という固有名詞は認識していなかったが、大社本殿をめぐる問題の中で。大社の本殿が一六丈とか三二丈という神話が生まれた背景に、大社そのものが過去に背後の山上にあったことを想定していた。
 この問題に関しては裁判当事者である北島・千家両家からその主張を裏付ける資料が提出されたはずであるが、裁許状以外はほとんど公開されていない。昨年新たに確認された北島家文書の中に残されている可能性はあろう。詳細は不明であるが、北島家が八雲山は北島家が代々管理してきたとしたのに対して千家側は大社のものであり、自らの権利もあると主張し、松江藩は従来どおり北島家の管理を認めたが、裁判が大事に至ることは回避し、北島家から千家方に文書を出すことを求めている。
 この八雲山の問題は国造館の問題と関係している。北島家が主張しているように、分立前の国造館は寛文の造営まで北島国造が使用していた。これに対して、千家国造館は本来の大社惣検校(神主)館である。国造館が境内にあり、神主館は境内外にあったのは両方の職の違いによる。神主館となる以前は、国衙の大社政所であったと思われる。国造は祭祀を担当したが、神主は祭祀のみならず、大社領の管理にあたった。神主は領家が補任し、交代も頻繁にあったが、国造は世襲に基づき国司が補任した(といっても現在残る国司の補任状は。いずれも後に作成されたものである)。鎌倉幕府成立に伴い、源頼朝と領家藤原光隆の支持により神主に補任された内蔵資忠も祭祀を司った。ただし、遷宮時の御神体奉懐など古き由緒を持つ国造にしかできない職務もあった。後に国造が神主を兼任するようになると、過去の歴史を書き換えてしまったが、本来は別の由緒を持つ二つの職、それが神主と国造であった。
 造営関係文書の核となる文書やそれに関係する指図はいずれも国造館で北島家が保存してきたが、分立後、そのような由緒を所持しない千家側は本来の指図(分立前に千家孝宗も接しており情報は持っていた)に新たな情報を加えて「金輪造営図」を作成し、中世最後の正殿造営となり、文永七年正月に焼失した本殿とその周辺を描いた絵図を密かに作成した。そこでは、神主館が異様なほど大きく描かれる一方で、本来の国造館はどこにあるのか分からないように描かれている。この絵図が宝治二年造営の大社本殿にあったものだという根拠なき説が説かれるが、千歩譲って、造営文書とは別に大社政所が管理していた可能性はゼロでないとしても(この表現は実質的にゼロという意味)、それに関する情報を北島家が持っていないことなどあり得ないのである。この絵図を利用した研究は他のデータで確認できる事以外、使い物にならない。また、両国造家による歴史の改竄が行われていることもすでに述べたとおり。内蔵資忠は非国造系出雲氏であり、その点では平安末に最初に経済力を背景に神主に補任され、次いでたまたま国造が早世した時期に、元国造兼忠のかなり年の離れた妹の婿となって、強引に国造となった出雲宗孝も同じである。それなのに(それだからこそ)国造家はライバルの内蔵資忠・孝元父子を中原姓であると改竄してしまった。北島家では千家方の主張する国造館は中原孝元が神主であった際の館であると主張しているが、ある意味正解だが、ある意味では不正解である。問題はきちんと史料を分析できない研究者にある。

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