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2020年7月31日 (金)

記事の補足

 「高二十二万三千四百七十石」そのものは、慶長郷帳(慶長一五年=1610までに報告)の数字と一致し、「二十五万二千六百五十石七斗升」は正保郷帳(慶安四年=1651までに報告)の数字より一三〇〇石ほど少ないことを前の記事に補足した。寛永一三年国絵図の年次比定は妥当であろうか。寛永一三年1636絵図、一五年絵図、正保二年絵図を並べると、斐伊川流路では一五年が独特であるが、一方で「慶長日本図(寛永一六年頃成立)」の流路と共通性が高い。石高の問題を併せると、寛永一三年図の成立は一五年図より後と考えるほうが妥当である。
 通説では寛永一六年に洪水があり、斐伊川が完全に東流したとされてきたが、東流はもっと古く、寛永一六年の洪水の存在にも疑問が出されている。松江藩の収納高については松平直政が入部した寛永一五年以降の記録『雲陽大数録』がある。それによると、寛永一六年は371,465俵とまずまずの収納高で、翌一七年に271,652俵と悪化している。全国的には一八年と一九年が寛永の飢饉と呼ばれる状況であったが、島原の乱が発生した西日本では、それ以前から悪化していたとされる。松江藩での収納高の低下は正保二年まで続き、三年になんとか318,607表にまで回復した。その後、慶安三年1650に259,780俵と低下するが、その翌年から延宝元年1673までは何とか30万俵を維持した(この間に前述のように広瀬藩が独立)。それが延宝二年には大洪水があり、200,000俵という最低の記録となった。
 以上のように、寛永一三年図と一五年図の間と一五年図と正保二年図との間に二度も流路を大きく変える洪水があった可能性は低い。あったとすれば一回で、それは正保二年前半である。上鹿塚村の一宮明神の社殿が洪水で流出し、正保四年検地帳からは同村の耕地の半分以上が流路変更で河床となったことがわかる。
付記:この記事と関係はないが、ここのところ、東大史料編纂所のデータベースを見ていないことに気付いた。

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