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2020年7月27日 (月)

根拠ある説を2

 同じ論文の中で、①「駄別を賦課された場所が杵築(門前)であったこと、宇龍における徴収が先年からの新しい措置であったことを尼子氏自身も認めざるを得なかったことがわかる。」②「宇龍浦において徴収しなければなかなかった事情とは、永禄6~7年頃の尼子氏が杵築を毛利氏に制圧されて、日御崎社への優遇措置が島根半島西端の確保に不可欠であったためである可能性が高い。」についても謂わば「昔の名前で出ています」説であり、論理的に破綻していると思う。①については近世との実態から誤りであることはすでに述べた。②について言及する。
 宇龍を含む杵築七浦に海賊衆と呼ばれる漁業と水運に従事した人々がいたこと、また美保関でも述べたが、関所には本来税を徴収する機関が独立して置かれ、その上に立ってその地を掌握した権力が税を徴収することになる。海賊衆と税関の人々は権力から一定程度独立しており、権力との関係も流動的であった。また、永禄五年から八年にかけて、日御崎社に毛利氏関係文書は残されていない。日御崎神社関係者で富田城に籠城した人がいたかも不明である。
 当方が尼子氏の日御崎社への寄進状から考えるのは、現在こそ毛利氏の支配下(とはいえ独立性はある)にあるが、大内氏の時のように、外国勢が撤退した曉にはさらに優遇することを約束したものではないか。毛利氏の出雲国入りからしばらくは、そのような「二匹目のドジョウ」の可能性もあると思われたのではないか。そのため、坪内氏惣領や温泉氏のように、富田城に籠城した商人・国人もいた。
 前回は大内氏方となった国人に対して、尼子氏から撤退後厳しい報復措置が取られた。そのためか、本庄氏が粛正された後も、尼子氏方に戻らず、毛利氏に最後まで協力した有力国人の方が多数派であった。なお、宇龍の新寄進は大内氏による出雲国攻めの際にも見られたが、一方では大内氏から日御崎神社への懐柔措置も行われた。年月日を欠いているが、その際の文書の写しが、近世の浦同士の裁判で支証として提出されている(松江藩郡奉行所文書)。その中には「神西方如存知当国之有躰不及申候へとも、近年国取合依有諸式致其堪忍候」「社領事、郡之内候之間此砌社領等相違之在所、先以七浦にて候」と、塩冶興久の乱で国外に追放された神西氏惣領の処遇と、杵築七浦の問題に言及されている。昨年一一月に確認し、写真は井上氏にも報告している(中世の新出文書はこれを含む二通)。
 なお、武士への所領給与と同様、寄進も半永久的なものと一時的なものがあり、尼子氏による宇龍の寄進は後者である。

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