koewokiku(HPへ)

« 藤原雅教と顕長1 | トップページ | 藤原顕輔について »

2020年7月 4日 (土)

藤原雅教と顕長2

 保元二年一〇月には従四位上に叙せられているが、内裏造営で東廊を担当した藤原隆能から譲られたものであった。隆能は清隆の子であるが、久寿元年八月には鳥羽金剛心院供養の勧賞(扉絵賞)で正五位下に叙せられ、『源氏物語絵巻』の作者とも言われるように絵画の名手であった。清隆の嫡子光隆が生まれた大治二年に非蔵人から蔵人に補任されており、光隆より年上であった。清隆は一六才で、光隆は七才で蔵人に補任されている。
 隆能は久寿二年一二月に三河守に補任されていた。隆能と顕長の関係は、顕長の姉妹が清隆の室であったぐらいである。ただし、その女性は後に顕隆の異母弟朝隆の室となり、嫡子朝方(1135年生)を産んでいることからすると、顕頼の同母妹で、顕長の異母姉である可能性が大きい。隆能と顕頼の同母弟顕能が共通の「能」を名に持つので、隆能の母は顕隆の娘であろうか。一方で顕長は異母兄顕能の子顕方を猶子とし、保元二年一〇月二七日に木工頭に補任されると、兵部大輔を皇后宮(呈子)権大進顕方に譲っている。その時点で清隆の子定隆が皇后宮亮であった。
 顕長は仁平二年一二月三〇日には駿河守を辞して忠弘(『山槐記』、『公卿補任』による、『兵範記』では「忠広」)を任じているが、その関係は不明である。時期的に該当するのは藤原北家隠岐氏の致康の子忠広であろう。雅教の父家政の母は二条関白家(師通)女房であり、師通の子家政を産んだが、その後、師通の母源麗子の異母弟師忠の室となり師長を産んでいる。家政誕生の二年前に師通と室藤原全子との間に忠実が生まれているが、その後、師通は頼通弟教通の子信長が養女とした信子を室とし、全子などそれまで師通の室であった女性は排除された形となった。師通と信子の間に子は生まれず、三八才で師通が急死すると全子の子忠実が後継者となった。忠実は報復として信子を拒否したとされる。家政も祖父師実のもとで育てられたとされる。なお雅教の同母姉であろう家子は藤原清隆との間に光隆を産んでいる。顕隆は外祖父という形で光隆とつながっている。
 以上、雅教と顕長について検討する中で、顕頼の知行国の事例に、越中(顕長)、遠江(雅教)、三河(顕長)、加賀(雅教)を付け加えることができた。五味氏以降の知行国研究がいかに低調であったかを示すものである。当該期の政治史を研究する上で、知行国の分析は必要不可欠なもので、これを欠いたままの分析は再検討が必要である。
付記:当初は雅教のみで記事をアップしたが、顕長を加えて「1」「2」に分けた。雅教は顕隆の娘の子、顕長は顕隆の晩年の子である。

« 藤原雅教と顕長1 | トップページ | 藤原顕輔について »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 藤原雅教と顕長1 | トップページ | 藤原顕輔について »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ