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2020年7月31日 (金)

斐伊川北進路について

 斐伊川は平野部に出た後、北西と北東に分岐していたが、現在の本流のように北進するルートはあったにしてもその規模は小さかった。その北進するルートが、寛永一〇年(一六三三)の国絵図(Ⅰ期)では一本であったが、寛永一三年以降の国絵図(島根大学附属図書館蔵、Ⅱ期)では二本に分かれた形で描かれている。次いで元禄一五年図(一七〇二、明治大学図書館蘆田文庫)以降(Ⅲ期)は現在に到るまで、北進ルートは一本にまとめられ、その河幅が拡大している。Ⅱ期の絵図の中でも微妙に異なり、寛永一三年図では二本の北進路は交わることなく宍道湖に注いでいるが、寛永一五年図では交わっている。これが正保二年図では交わってはおらず、それに続くのが元禄一五年図である。これによりⅡ期の中でも洪水等により何度か状況が変化したことがうかがわれる。「慶長国絵図(日本図)」に描かれている斐伊川は寛永一五年図に近い流路であり、その成立年代を知る手がかりとなる。その成立は少なくとも寛永一〇年より後となる。
 寛永一〇年図には北島村の北側を東北東に流れて宍道湖に入る流れがあるが、これが以前、康元元年(一二五六)の大社領注進状の時点で存在した流れ(冒頭の北東路)を継承するものであろう。これ以降の絵図では流れが変化し、確認できない。これと寛永一三年図以降にみえる東側の北進路は別ものである。そして二本の北進路では西側が先行し、これに続いて東側が生まれたが、現在の本流は東側を継承したもので、西側のルートは消滅している。県立図書館所蔵の「出雲国図 十郡(高二十二万三千四百石余)」はその成立時期を示すものはないが、二本の北進路が描かれ、且つ西側の流れが一部(石塚村以南)消滅しており、Ⅲ期(西側の流れが完全に消滅)に先行するものである。寛永一三年国絵図には「石高二十五万二千六百五十石七斗四升」とあるのに対して「高二十二万三千四百石余」とあり、寛文六年(一六六六)の広瀬藩(三万石の所領)と母里藩(一万石、当初は蔵米支給の内分分知で、一六八四年に独立した所領となる)の独立が関係するかと思ったが、この数字は万治期~寛文期(一六五八~七三)頃の成立とされる『武家諫忍記』に「出雲(略)古高十八万六千六百五十石、今高二十二万三千四百七十石、悉松江領也」とあるのと一致しており、絵図は一七世紀後半のものであろう。
 また、「出雲郡」ではなく「出東郡」の名称が使われていること、元禄一五年図以降楯縫郡とされる村々が出東郡内とされていることからもわかる。楯縫郡と出東郡の村々が同じ色で視されているため、久木村がいずれの郡に属するかは不明である。検地帳では、寛文八年までは出東郡であったが、翌九年から出雲郡に変更されている。
 なお、国立公文書館所蔵の正保二年出雲国絵図では久木村は周囲の村と色が異なり、楯縫郡であることがわかるが、これとほど同じ構図の正保年間出雲国図(島根県立古代出雲歴史博物館所蔵)では周囲の村々と同じ色である。
 同じく県立図書館所蔵の「出雲国簸川分間絵図 三」では北島村の飛び地が斐伊川本流西側にあり、「出雲郡中図面」では北島村分とともに神立村分も確認できる。これにより二本の北進路では西側が先行し、次いで東側が生まれ、最終的には西側は消滅し、東側が斐伊川本流として残ったことがわかる。本流が西側から東側に移ったことで村の土地が河床となり減少した北島村と神立村が、土地が増加した西側の村に飛び地を求めて認められたものであろう。両図とも文化四年(一八〇七)国絵図と共通性があり、一九世紀初めものであろう。寛永一三年絵図では西側の流れにより武志村が分断されており、この流れが消滅したことで「川跡」の地名と神社が生まれたと考えられる。
 以上をまとめると、寛永一〇年段階で北進路が本流であったが、その後の水害でその東側にも分岐した流れが生まれ、一七世紀末までに西側の流れは消滅し、東側が本流となった。
付記:「高二十二万三千四百七十石」そのものは、慶長郷帳の数字と一致し、「二十五万二千六百五十石七斗升」は正保郷帳の数字より一三〇〇石ほど少ない。

 

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