koewokiku(HPへ)

« マスメディアの役割3 | トップページ | 嘉禎四年、宝治元年の守護2 »

2020年7月15日 (水)

嘉禎四年、宝治元年の守護1

 以前述べた嘉禎四年の守護について補足する。その分析の中心であった出雲・隠岐については既に補足した記事をアップしている。
 宝治元年一二月京都大番勤仕大番頭定(『吾妻鏡』)にみえる大番頭の多くは守護である可能性が高いと西田友広氏が述べている(「鎌倉時代の石見国守護について」)が、諸国御家人を率いて大番役を勤仕する守護の性格からして妥当な見解である。
 一番の小山大夫判官は嘉禎の下野入道(嘉禎四年三月三〇日に八四歳没)の後継者であり、下野・播磨・壱岐守護。二番の遠山前大蔵少輔と嘉禎の大蔵少輔は同一(景朝)で甲斐守護。三番島津大隅前司は嘉禎の豊後修理亮と同一(忠時)で薩摩守護。四番葛西伯耆前司は清親で、嘉禎の壱岐左衛門(時清)がその後の史料にみえないので,弟(前の記事では子としたが修正)時清の死により備前守護を継承したと思われる。備前国は後鳥羽院の子頼仁が配流されており、業務(六波羅中心に活動)を通じて隠岐守護であった佐々木泰清との関係が生まれ、泰清が清親の娘を妻とし、三男頼泰以下が誕生した。
 五番中条藤次左衛門尉(頼平)は嘉禎の出羽判官家平の子で尾張守護。六番隠岐出羽前司(二階堂行義)は嘉禎にはみえない。宝治元年六月の宝治合戦で守護交代が確実なのは、嘉禎の三浦義村(安房・讃岐)、佐原家連(紀伊)、千葉秀胤(上総・丹後)、毛利季光(飛騨)である。安房・讃岐は三浦・佐原氏一族で生き残った一五番三浦介(盛時)に与えられた。この内、紀伊守護家連は同国南部庄地頭でもあった。これが乱後は常陸入道行日(二階堂行久)に与えられている。行久は行義の二歳下の弟で父行村は嘉禎四年二月一六日に八四歳で没している。前述の小山朝政と生没年が同じである。行村没により行義が嘉禎四年に評定衆となり、翌暦仁二年には兄基行が、建長元年には行久が評定衆となっている。以上の点から、行義は紀伊守護であろう。
 七番上野大蔵権少輔は嘉禎の上野入道(結城朝光)の子朝広で加賀守護。八番千葉介は嘉禎の千葉介と同一(時胤)で下総・伊賀守護、九番宍戸壱岐前司は嘉禎の奥太郎左衛門(小田泰知、木下氏による)の従兄弟宍戸家周で常陸守護。嘉禎の「宍戸左衛門 参河」は末尾の守護不設置の参河と矛盾しており、誤りであろう。一〇番足立左衛門(元春)跡については守護国は不明である。一一番後藤佐渡前司は嘉禎の玄蕃頭と同一(基綱)で越前守護。一二番伊東大和前司は嘉禎と同一(祐時)で石見守護。
 一三番佐々木隠岐前司は嘉禎の隠岐次郎入道と同様に悩ましい。『吾妻鏡』延応元年一二月二九日条に「佐々木隠岐入道」、建長二年一二月二九日条に「佐々木隠岐前司義清」とみえることと、泰清は隠岐守任官歴がないので、佐々木義清となるが、高岡氏系図によると仁治三年(一二四二)に八二歳で死亡している。宝治元年五月九日の新日吉社小五月会で流鏑馬四番を務めている「佐々木隠岐次郎左衛門尉泰清」であろう。泰清の生年は不明だが、兄政義が承元二年(一二〇八)年生で八三歳没であるので、宝治元年には三〇歳代半ば過ぎであろう。政義は義清が四八歳時の子で、泰清とともに晩年の子であるが、三人とも八〇歳を越えており長寿である。嘉禎を含めて混乱が生じた原因は実際には子政義と泰清が出雲守護、隠岐守護の実務を行いながらも、父義清がなお生存していたからであろう。宝治二年四月二五日に泰清が田所義綱を隠岐国船所に補任しており、父と同様に隠岐守に補任されたとの説もありそうであるが、同年一〇月二七日に行われた杵築大社遷宮時の流鏑馬を務めた泰清は「守護所隠岐二郎左衛門尉」であり、父義清が隠岐守を務めたことで得た国衙支配権を継承して船所補任をしたとすべきである。

 

« マスメディアの役割3 | トップページ | 嘉禎四年、宝治元年の守護2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« マスメディアの役割3 | トップページ | 嘉禎四年、宝治元年の守護2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ