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2020年7月12日 (日)

保延七年の大社顛倒をめぐって

 大社の「顛倒」については、造営のため従来の本殿を倒したものであるとの見解が示されたが、この保延七年六月七日の顛倒は、突然のもので、現在ある施設にとりあえず遷した上で、仮殿造営が行われた。問題は顛倒の原因である。建物の状態については確認され、造営事業の準備は進んでいたはずである。出雲守藤原光隆の父清隆は崇德天皇の御願寺成勝寺造営の行事を務めており、十分な経験があった。そこで、地震、大風、豪雨など自然環境の影響が考えられる。大社顛倒、一四日後には法成寺新堂(『百錬抄』は大社顛倒とともに五月とする)が故なく崩れている。そして、七月一〇日には、今年が辛酉革命の年であるかどうかが議論され、その日の内に永治に改元されている。すでに半年が経過しており、様々な災害などの発生から疑問が出されたのであろう。さまざまな案が出され、それを検討して改元が行われる普通の改元とは異なっている。
 とはいえ、改元の効果はあまりなかったようで、『百錬抄』には八月二日条に晴れる事が無く雨が降り続き、洪水が比類無しと書かれ、二五日には天下の諸神の位階を一楷上げている。災害は特定の地域ではなく、かなりの広がりを持ったものであったと考えられる。ちなみに、大社が顛倒した日は現在のグレオリウス暦に換算すると一一四一年七月一九日であり、今でいう梅雨末期の集中豪雨の時期である。なお、この年の一二月末に崇德天皇が退位し、近衛天皇が即位している。
 この時期は公家の日記の空白時期で、『本朝世紀』も康和六年(一一〇四)から永治元年(一一四一)まで欠巻である。そした中、美濃国の東大寺領茜部庄と仁和寺大教院領市橋庄の間で境界をめぐる対立が起きている。この問題の背景には、庄民による出作の問題があったが、それが顕在化したのは、永治元年秋(七月~九月)の大洪水で、境界であった河の流路が変わったことであった。また、備前国香登庄でも、洪水で庄内四〇余町が池成田となったが、それが河を挟んだ公領の高堤の築造が原因であったとして、年貢納入のため公領の一部を庄園に割譲することを求め、靭負・服部両郷内便宜作田廿町八段が便補されている。高堤築造の原因も洪水で、広範囲の作田が損耗したことに対するものであった。それ同時に用水のため新たな新堀を掘ったところ、今度は洪水時に傍らの香登庄に水が溢れ、河成田となった。河成田に対する検注が行われたのが康治二年(一一四三)であるので、それ以前に少なくとも二度の洪水があったことになる。
 香登庄は鳥羽院領備前国香登勅使が得子との間に生まれた暲子内親王(後の八条院)に譲られ、永治元年八月四日に太政官符で不輸権を認められており。二度目の洪水は同年秋以降のものであった可能性が高い。またその近い時期に一度目の洪水で公領が損耗する事態となり、高堤の築造がなされた。
 話を戻すと、保延七年(七月一〇日に永治改元)六月七日の大社顛倒の直接の原因を明確にはできなかったが、この時期には、急な改元が行われるほど自然災害が相次いでいた。辛酉革命が理由であるならば、もっと早い時期に行ったはずであり、候補の検討もそこそこに行った異例の改元の口実に使われたものであろう。なお、美濃国と備前国の庄園をめぐる問題についてはなお不明確な点がある。特に茜部庄と市橋庄の位置関係が、友河を挟んで西が茜部、東が市橋と明記されているにもかかわらず、地図上で両者の位置関係を比定できず、今後の課題とする。備前国香登庄については中野栄夫氏の検討(『荘園の歴史地理的世界』)がある、

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