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2020年7月10日 (金)

明応六年七月三日日置政継譲状について

 日御崎神社、とりわけ中世後期の同社の問題については、近年は考えたことがなかったが、斐伊川流路の問題で、久しぶりにこの譲状をみた。政継とは大社国造の協力を得て外戚田儀又法師との日御崎社検校をめぐる争いに勝利した愛寿丸と同一人物で、その後は守護京極氏と結んで大社からの独立を達成した。その譲状は①長禄二年と②明応六年の二通が残っており、県の古文書調査を担当して目録を作成した村田正志氏が、②が正しく①は偽文書としたのに対して、井上寛司氏はともに偽文書ではあるが、①には又七郎政次から又次郎政継への、②は又次郎政継から政忠への譲与が反映されているものと評価された。これに対して「中世日御崎車に関する基礎的考察」(『山陰史談』24)の中で、①は他の史料と合致し、②は明らかな偽文書とした。
 その前提として、井上氏が想定された「又七郎正次」から「又次郎政継」への譲与は誤りで、愛寿丸=又七郎政継が子又次郎某に検校を譲ったが、又次郎が早世したため、その後、政継が孫政忠に譲ったとした上で、②は記された所領名からして、後世作成された偽文書だとした。
 ②では所領として最初に、神門郡薗内外、芦渡郷内一〇町、荻原郷内田壱町、屋敷壱所を挙げている。荻原郷は一五世紀後半に京極氏家臣である牛尾氏から寄進され、次いで荻原郷の新領主三沢氏もこれを継続安堵したもので、その由緒は明確である。これに対して薗内外と芦渡郷に関係するのが、何度も分析した③正応元年一一月二一日将軍家政所下文(小野文書)である。戦国期以降に日御崎社が入手し、②を作成した際に、その裏付けとなるものとして③を利用した。その際に都合の良いように、改変した。下文の宛所である「又次郎」と政継の子「又次郎」が一致するのは偶然であるが、それが改変を行わせた理由かもしれない。それゆえ、当時は所領の前に郡名がなかったのを二行分かち書きにして強引に「神門郡薗内外」と入れた。続く部分もこれを「蘆渡」郷に改変した。これまでこの「蘆渡」にひきづられ、これを守護佐々木氏庶子の古志氏に比定したことがあったが、見当違いであった。現時点では出雲守護佐々木頼泰の嫡子貞清が在京奉公の労とねぎらいとして与えられた文書が本来の姿であったと考える。そうすると「神門郡」が記入された理由も理解できる。ただし、本来、記されていた所領名については明らかではない。

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