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2020年7月17日 (金)

日記の登場人物の比定

 以前の記事で『兵範記』久寿二年七月二四日条について活字本(通覧版=国会デジタルで公開、増補史料大成本)の問題点を指摘した。「□□□家長」と翻刻された部分が、実際は「□□□」の部分は前の「同少将」実長と同じなので省略されていたもので、「家長」(家成の異母兄)も「家明」(家成の子)が正しかった。そのきっかけは『広島県史』古代中世資料編で八月一日の記事をみて、疑問を持ち確認したことであった。『広島県史』は既成の活字版を利用したと思われ八月一日条には「美濃守家長」となっていたが、当時の国司補任と矛盾し、別本の「美作守家長」が正解であった。
 最近の記事では『中右記』嘉承三年一月二四日条で尾張守に遷任した高階為遠について、大成本が「不候」と翻刻した部分が「又候」が正しく、為遠もまた院近臣であったが、大成本に基づくと院近臣でなかったと解釈されてしまう。『中右記』は新たに大日本古記録として翻刻中で、嘉承三年は出版済みなので、訂正は容易であるが、未刊分はそうもいかない。最近刊行された『鳥取県史』では正しく翻刻されている。
 今回は『長秋記』長承三年八月一四日条を『鳥取県史』で確認したが、大成本に基づいている。『長秋記』は良い写本がないとの話を聞いたこともあり、大成本が採用されたのであろう。ここの部分は、得子が鳥羽院の寵愛を受けた際のその兄弟(長実子)の処遇が記されているが、その中に縁者でない藤原顕頼が含まれていた。通説では顕頼もとばっちりをうけて財産を没収されたと解釈されているが、それが誤りであることは前に述べた。顕頼は鳥羽院の側近で摘発した側であった。
 この記事について、院政期の知行国制度を検討した五味文彦氏は、顕頼が登場する前の、得子の兄弟三人が処罰されたところまで引用し、この事件が待賢門院の訴えによるとする角田文衞氏の見解はおそらく正しいであろうと述べた。この角田氏の見解が誤りであることは既に述べた。長実の嫡子顕盛が白河院の権威を背景に、鳥羽院の要望を握り潰したことで、白河院の没後、鳥羽院から修理大夫を解任され、一旦復帰したが、すぐに修理大夫を望んだ近臣藤原基隆に交代させられた。この顕盛は白河没後に新たに待賢門院庁の別当に補任されており、明らかに矛盾している。得子の兄弟を冷遇したのは、待賢門院の兄弟を含む閑院流との関係(鳥羽院の母も閑院流出身)を反省した鳥羽院に外ならない。 
 『鳥取県史』には八月一三日条も掲載されていた。女院御願寺法金剛院御塔と経蔵の上棟があり、因幡守が参加していたからである。そこには「藤原通基」も登場し、県史は因幡守に藤原通基との注記を付けていた。長承三年二月二四日の除目で藤原公通が因幡守に補任されており、誤りである。通基はその除目で丹波守に遷任したと考えられる。一三日条には因幡国司の前に丹波国司が記されており、これが通基に外ならない。県史には国司の任免に関する一覧表も掲載されているのに、なぜこのようなミスをするのだろうか。なお、公通は故長実の娘聟になったこともあったが、結果としては通基の娘との間に嫡子実宗が誕生している。通基は女院庁別当の中心であり、公通は女院の同母兄西園寺通季の嫡子であったが、父通季が三九歳で死亡した時点で一二歳であった。得子の父長実にしても白河院近臣で、女御璋子とその子顕仁(崇德)親王の政所別当であった。そうした中で、公通が長実の聟となったのだろう。

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