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2020年7月17日 (金)

洪水の影響と検地帳

 今年も各地で洪水が相次いでいるが、流路変更を伴うものではないようである。同一の村の検地帳をみているが、急に一筆毎の肩に付けられた字が少なくことがある。流路変更があれば当然、区画と字を一から付け直さなければならない。流路変更がなくても厚く土砂が堆積すれば、同様の変更が必要となってくる。洪水があっても区画がそのまま維持できれば、字の変更も少ないが、しばらくは生産力が低下する可能性がある。ということで、二つの検地帳を比べることで、この間に1)目だった洪水はなかった。2)洪水はあったが、区画、字の変更は少なかった。3)流路変更はなかったが、区画の変更があった。4)流路そのものが変わった。以上の四段階に分けることができるのではないか。
 ブログでは斐伊川の問題について、最初に寛永三年と正保四年の美談村と上鹿塚村の検地帳を比較し、両者の間に流路変更があったことを述べた。問題はその時期であるが、とりあえずは『雲陽誌』に寛永一六年(一六三九)に上鹿塚村の一宮明神が建立(再興)されたことと、正保二年(一六四七)に洪水で明神の社殿が顛倒し、古記神宝が悉く流出したことを材料とせざるを得ない。前者がいわゆる斐伊川が東流したとされていた洪水であるが、その時期は寛永一五年以前であろう。そこでは古記神宝は持ち出して事なきを得たが、正保二年の洪水は寛永の洪水より被害が甚大で、社殿から古記神宝を持ち出す余裕もなく流されたのであろう。前に述べたように、正保四年の両村の周辺の村々の検地帳ではここまでの被害は読み取れず、美談・上鹿塚付近で堤防が破れ、その上流と下流の村は大被害を免れたのだろう。
 以上、正保四年の検地帳から読み取れる内容について、以前の記事をバージョンアップしたが、さらには寛永三年の両村検地の背景も気になるところである。同年の検地帳が残っているのは二村とこれに隣接する西代村のみである。ただし、寛永三年の検地帳からは洪水が発生した影響などは読み取れない。

 

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